◎「とばし(飛ばし)」(動詞)
「とび(飛び)」の他動表現。遠くへ行かせてしまうこと。「とび(飛び)」はその項(10月28日)。
「八百里(やほさと)如(なせる)、磐根(いはがね)に、毗禮衣(ひれころも)、裾(すそ)垂(た)れ飛波志(とばし)…」(『続日本後記』嘉祥二(849)年三月:裾が風に飛ぶような状態になっているわけです)。
「箭(や)をとばす事雨の如し」(『十訓抄』)。 「檄(ゲキ)をとばす」(「檄(ゲキ)」は木製の通告文書ですが、古く、中国で、緊急に伝えねばならないものの場合、それに鶏の羽根を添えたという。鳥のように飛ばせ、ということでしょう。「檄(ゲキ)をとばす」という表現はその影響か。現代では、「激(ゲキ:激しさ)をとばす」のように解され、通告よりも、激励する、鼓舞する、のような意味で言われているでしょう)。 「読みとばす」(一部を読まずに越える)。 「叱りとばす」(相手をとばすような激しさで叱る)。 「笑いとばす」(なにごとかやなにものかを飛ばしその存在をその場から払うように笑う)。 「売りとばす」(ただその場から存在をなくすためだけの粗雑さで売る)。
「……たまきはる (幼い我が子の)命絶えぬれ 立ちをどり 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 我が子登波之都 世間(よのなか)の道」(万904:問題は「登波之都(とはしつ)」なのですが。この部分は一般に「飛(と)ばしつ」と読まれ、「波」は「婆」に書き変えられたりもし、いつ書かれたのかは不明ですが、濁音であることを指示する符号が書かれていたりもする(西本願寺本)。しかし、それが鳥のようであったとしても、人が死ぬことを「とぶ」と表現すること、人をそうさせることを「とばす」と表現することに違和感はないでしょうか(江戸時代ころのやくざの隠語でならありそうですが)。「とばし」は、ただ自分とは(あるいは、そことは)関係のないところへ放り投げるような語なのです。ましてや、この場合、飛ばした主体は幼い我が子を失った父親でしょう(神かもしれませんが)。飛んだのが魂だったとしても、違和感を覚える。なにを言いたいかというと、「登波之都」は、「飛(と)ばしつ」ではなく、「問(と)はしつ」でしょう。「問(と)ひ」は、思い追い、のような意であり(「とひ(問ひ)」の項)、「問(と)はし」はその使役型他動表現。文法では使役は「とはせ」と言われるわけですが、「とび→とばし」はもちろん、「交(か)ひ→交(か)はし」「沸(わ)き→沸(わ)かし」のように、「~し」でも使役形他動表現は可能であり、それが独律した動詞として評価される状態にもなっている。すなわち、「問(と)はしつ」は、思い追わせた、ということであり、歌は、手に持てる、今私が抱いている、その子を、(なにかの力が)思い追わせた(そうさせられた。私はそうしたいなどと思っていないのに)。今私は現にその子を腕に抱いているのに、その子はふとどこかへいなくなってしまい、私はその子を思い、探し、追った。現実の世の中の道に…(父親は死んだ幼い我が子を抱いたまま家を出、道へ出たのかもしれない。息子の体を離れ家から遠ざかろうとしている魂たる幼い息子が道の彼方にいるかもしれないから)、ということ)。

◎「とばしり(迸り)」(動詞)
「とびはしり(飛び走り)」。飛ぶように移動すること。意味は「飛び散り」に似ている。この語の連用形は多少音が変化し「とばっちり」になる。
「而る間、雷電霹靂して、寺の柱を震(をのの)かす。此の従者の一人、走り出でて、階に至て即ち死ぬ。此の雷の震かす柱、壊れて迸(とばしり)て、張亮が額に当る」(『今昔物語』)。
「迸 …ホドハシル……トバシル……ハシリ チル」(『類聚名義抄』)。