◎「となり(隣)」
「つをなり(蜻蛉尾成り)」。「つ」は蜻蛉(とんぼ)を意味する(→「とんばう(蜻蛉)」の項)。蜻蛉(とんぼ)の尾は節が並び揃った状態になっている。「つをなり(蜻蛉尾成り)→となり」は、その節ように住居などが並び立っている状態になっていること、また、そのように並び立っている住居など。この語がそのまま動詞化した「となる(隣る)」もある。その意味は「となり(隣)」になること。
「人妻(ひとづま:比登豆麻)とあぜかそを言はむ しからばか 隣(となり:刀奈利)の衣(きぬ)を借りて着なはも」(万3472:この歌は東国方言による変化がある。「あぜ」(その項)は、なぜ、どういうことで、といった意。最後の部分は、「なふ(無ふ)」(その項)という、否定を表現する方言表現が東国にある。最後の部分の「きなはも(伎奈波毛)」はそれによる、着(き)無(な)ふはも(最後の「も」は感嘆)、か。全体で言っていることは、「人妻(ひとづま)」と、それを言うのはなぜか。しからばか(だからか)。隣の衣を借りて着ないのは→ひとづまとなぜ言うんだろう。だからか。となりの衣を借りて着ないのは(人妻だから、と禁忌を言うのは隣の衣を借りて着ないことと同じ理由によるものだ)。 ここで注意を要することは、「つま」という言葉は、後世では女を意味しますが、古代では、男から女も、女から男も、相手を「つま」と表現した(この歌では「比登豆麻(ひとづま)」)。つまり、言っていることは、ほかの人の「つま」だから、と禁忌がいわれるのは、「つま」たる二人はどちらもが相手を温める衣のようなものであり、それを「つま」ではない隣(となり)の者が貸してくれなどと要求してはいけない、ということ。この歌は 「人妻だから駄目となぜそれを言うの。でも隣の人の着物を借りて着ることがあるではないか」「人妻だからとそのことばかりどうして言うのか。それならば隣の人の着物を借りて着たりしないというのかな」(どちらもネットにあるもの) といった解釈がなされていますが、そういう歌ではありません(「か+着(き)なふ(着(き)の否定の連体形)」はそうした解釈にはならないでしょう。「か」は原因を思考し疑問を表現するわけですが、それが詠嘆になる→「我妹子がいかに思へか ぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる」(万3647)))。
「朝庭(みかど)を欺誑(あざむ)きまつれり、一(ひと)つなり。隣(となり)の使(つかひ)を溺(おぼほ)らし殺(ころ)せり、二(ふた)つなり。茲(こ)の大(おほ)きなる罪(つみ)を以(も)ては、放還(ゆるしつかは)すこと合(かな)はず」(『日本書紀』:この「隣(となり)」は隣国の意)。
「越後の国は、其堺(境)上野に隣(となっ)て」(『太平記』:これは動詞)。
◎「どなり(怒鳴り)」(動詞)
「ドねはやり(怒音逸り)」。「はやり(逸り)」は勇みたったような状態になること→「はやり(逸り)」の項参照。「ド(怒)」は「怒」の音(オン)であり、怒(いか)ること。「ドねはやり(怒音逸り)→どなり」は、怒(いか)りの(口音の)響きが昂奮し心情が昂進しているものであること。これは、自然、大声でありその口調も心情の昂奮性を感じさせる激しいものです。
「すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた様な声をして、座敷の中から此-馬鹿-野-郎と怒鳴(どな)つた」(『吾輩は猫である』(夏目漱石))。