◎「とと(魚)」

魚を「ておとを(手音尾)」。「ておと(手音)」とは、両手の平を打ち合わせた際に発せられる音であり、「パタ」や「パチ」のような音。「ておとを(手音尾)→とと」は、(跳ね)そのような音を発する尾のもの、の意。この表現で魚、とくに食用の、魚を表現した。この語は幼児語とも言われますが、城中あたりの女房詞でしょう。

「斗ゝ 倭国小児女呼魚曰斗ゝ。類説云…」(『節用集』(最終部に「尊経閣叢刊節用集 原本侯爵前田家蔵」という印のあるもの(原本は1500年代末)):小児や女が魚を、とと、と言っているという)。

 

◎「とど」

「タウド(到度)」。「到(タウ)」は到(いた)ること。「度(ド)」は想の整(ととの)えであり(→「ちゃうど(丁度)」の項)、強さや量が変化進行している場合、ある強さや量を「度(ド)」とも言う(→「度(ド)を超える」「度(ド)が過ぎる」)。「タウド(到度)→とど」→到(いた)る想の整(ととの)え、到(いた)るある強さや量、とは、進行し、まさにそれと至(いた)ったその想(考えや思い)であり、ある強さや量。

「全体、土間も六人とどで見るといゝけれど、これへ九人の十人のと入れられちやぁたまらねへ」(「滑稽本」『客者評判記』:六人が限度で)。

「当麻姫いろいろあつて、とど滝の元へよぢのぼり」(「歌舞伎」『鳴神』:芝居の進行として、到(いた)った度(ド)、とは、芝居の進行としてその間合いになったとき、ということ)。

「とどのつまり」(「つまり」は情況・ことの充足・完成(→「つまり(詰まり)」の項)。つまり、意味は、度(ど)の到(いた)りたる(もはやそれ以上はない)ことの充足・完成)。

 

◎「とど(海馬)」

「ておとてを(手音手尾)」。語末は連音が濁音になっている。「ておと(手音)」とは、両手の平を打ち合わせた際に発せられる音であり、「パタ」や「パチ」のような音。ここでは、そのような音(おと)を発する形体、ということ。手(て)と尾(を)がそのような形体であることが「ておとてを(手音手尾)→とど」。この語はある種の哺乳類海洋生物の名ですが、古くは、アシカが成長するとトドになるとも思われていた。つまり、それよりも形体が大きいだけで、似ている。体に手と尾があり足はなく、そのどちらもが打ち合わせるとパタパタと音がしそうに平たい。

「等ゝ島 禺ゝ 當位」(『出雲国風土記』「嶋根郡」(国文学研究資料館所蔵のもの):「禺ゝ(ググ)」は「とど」と読まれていますが、それは、島の名「等ゝ」や、『史記』に「禺禺鱋魶,揵鰭擢尾,振鱗奮翼,潛處于深巖(ひれと尾を立て、鱗と翼をはためかせ、深い岩に潜る)」とあり、『史記集解』「史記一百十七」に「禺禺鱋魶 徐廣曰 禺禺魚牛也」、とあることによるものか。「當」は「直」の意であり、「位」は「立」ということであり、「當位」は直立状態になる、立つ、ということでしょう)。

「胡獱 コヒン トトノ老 アサラシノ若キ」(『色葉字類抄』:ようするに、トド、アシカ、アザラシといった類は明瞭に区別されていない。「とど」は「胡獱」とも書く)。

「トゞ  海獺(うみうそ:アシカ)ノ年ヲ経タルモノヲ云」(『物品職名』)