「とて」(その項・10月12日)は思念(想)が確認され(理性化し)経過する。「も」は助詞のそれですが、「あれもこれも」のような、累加を表現するそれ。つまり、「とても」は、思念(想)が経過し累加・累積する。思念(想)が累加・累積的に経過する。ただ無際限に経過する。それにより、経過がどれほどに、どのようにあっても、のような意味になるわけですが、どのようなことが経過するかはさまざまです。客観的な世の中のなりゆきであることもあれば、自分の心情や思いであることもある。「かく(斯く)」による表現も重なり「とてもかくても」という表現もある。

「其外、日本国に平家の庄園ならぬ所やある。とてものがれざらん物ゆへに…」(『平家物語』:自分や世の中の経過がどのようにどれほどあっても、どうあっても、逃れられない)。

「『…打上ムトストモカナウマジ。下ヘ落シテモ死ムズ。トテモ死(しな)バ敵ノ陣ノ前ニテコソ死(しな)メ』トテ、手縄ヲクレ、マ逆ニ落サレケリ」(『(延慶本)平家物語』「廿(二十) 源氏三草山并一谷追落事」:「トテモ死(しな)バ」は、後世の、とても大きい、のような表現の影響による、非常に死にそうなら、という意味ではない。どう経(へ)ても、どうあろうとなろうと死ぬなら、ということ。どうせ死ぬなら、に表現は似ている)。

「又名乗テモ討レナムズ、ナノラデモウタレムズ。トテモ討ベキ身ナレバ、又カヤウニ云モ疎ナラズ(事情のわかっていない者にはならない)」(『(延慶本)平家物語』「廿四(二十四) 新中納言落給事付武蔵守被討給事」:これも上記と同じ「トテモ討ベキ」は、どうせ討たれる、ということ)。

「…早晩旗鼓の間に相見(あひまみ)へずばなるまい。迚(とても)衝突するなら、諸君、今が即(すなは)ち衝突すべき機会である」(『社会百面相』(内田魯庵):どうしようとどうなろうと衝突するなら)。

「『矢田殿、我はとても手負たれば、此にて打死せんずるぞ…』」(『太平記』:これも、非常に傷を負った、という意味ではない。私は、どうあっても傷を負っているから、治らない致命的な傷を負っているから、ということ。つまり、どうせ死ぬんだからここで討ち死にする、ということ)。

「『いやいや宝にかぎつて負(まけ:値引き)はない。いやならばおかしめ』『それ迚(とて)も求めませう』」(「(和泉流)狂言」『宝の槌』:なんとしても、なにがあっても、私が買いもとめましょう)。

「とても僻事(ひがごと)して世をわたる我々、沙門なりとて助くべき様なしと…」(『俳諧世説』:どう考えても、僻事して世をわたるとしか言えない我々)。

「なむやくしるりくはう(南無薬師瑠璃光)如来、とても御引あわせの事ならば………ねがはくは道にて見そめしその人に一たびちぎりをこめさせてたび給へと…」(「仮名草子」『竹斎』:どのような経過であろうと引きあわせがあるなら、ということなのですが、なんであれ、どうであれ、とにかく、に表現は似ている)。

「およそ物狂ひの出立(いでたち)、似合ひたるやうに出で立つべき事是非なし。さりながら、とても物狂ひに事寄せて、時によりて、何とも花やかに出で立つべし」(『風姿花伝』:どうあろうと、どうなろうと、物狂ひに事寄せて)。

「迚(とて)も縁者になるうへは………今一組祝言いたさせ申べし」(『本朝桜陰比事』:どんな事情がありどうなろうと縁者になるなら…)。

「とても大きなお風呂です」(「童謡」『大きなお風呂』:どう考えてもどう思っても、大きい。これが、非常に大きい、という意味になる)。

「あいつとはとてもやってられない」(思考や感情であれ、客観的なものごとの成り行きであれ、それがどのような「経(へ):経過」でも、やっていられない)。