◎「とぢ(閉ぢ・綴ぢ)」(動詞)
「とつひしひ(門終強ひ)」。「と(門)」(9月4日)は内界と外界を行き来する域。それが終(つひ)に、終わった状態に、なることが絶対になっていることが「とつひしひ(門終強ひ)→とぢ(閉ぢ)」。門(と:(内の)外との関係を保障する部分)の終局を意思にかかわらず実現させる。なにものかやなにごとかが、絶対的に、その外界との関係がなくなる状態になる。自動表現はなにものかやなにごとかがそうなる。他動表現はなにものかやなにごとかをそうさせる。
「門(と)」による「内(うち)」がなにごとかを負う複数のなにかの、その複数であることもあり、その「門(と)」を終(つひ)に終わった状態にすることは、その複数を、「外(そと)」との関係を打ち切らせ、一体化させることである→「(複数枚の書類を)綴(と)ぢ」。
「あさましく(あきれるほど。雨の)をやみ(小止み)なき頃の気色(けしき)に、いとゞ空さへ閉づる心地して、眺めやる方なくなむ」(『源氏物語』:自動表現)。
「年暮れて岩井の水も氷とぢ見し人かげのあせもゆくかな」(『源氏物語』:自動表現)。
「さて、世にありと人に知られず、さびしくあばれたらむ葎(むぐら)の門に、思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ、限りなくめづらしくはおぼえめ」(『源氏物語』:自動表現。この「られ」は尊敬。閉じ込められている、という受け身ではない。外界から途絶されたような生活状態で家にいる。「らうたげ」は「らうたし」(その項)の語幹に「け(気)」がついている)。
「たえだえの木の葉が下の音づれも霜にとぢたる虫のこゑごゑ」(『千五百番歌合』:自動表現)。
「噤 ……トヅ ツクム」「閉 ……トヅ…フサガル」(『類聚名義抄』)。
「門をとぢ」。「口をとぢ」。「目をとぢ」。「本をとぢ」。
「薄様(うすやう)の草子、斑濃(むらご)の糸してをかしく綴(と)ぢ…」(『枕草子(能因本)』)。
「檜扇とちて遣了(つかはしをはんぬ)」(『言継卿記』)。
◎「どち(何方)」
→「あち(彼方)」の項。不知・不明の方向、そうした方向のものやこと、を表現する。情況を表現する「ら」が加われば「どちら」。「どっち」という表現にもなる。
「ドチナリ共行カハイケ」(『蒙求抄』:どこへでも)。
「サレドモ、處ニヨリテ、ドチナリトモ、ヨマウソ(読もうぞ)」(『蒙求抄』:どちらの読み方もする)。
◎「あち(彼方)」
「あつい(彼つい)」。「あ(彼)」はその項。全的な完成感が個別性・具体性のない存在感を表現した。「つ」は同動を表現する助詞(→「つ(助)」の項)。「い」は、I音により進行感を表現する。つまり、個別性・具体性のない存在への進行、それが「あつい(彼つい)→あち」。「あっち」という表現にもなる。
語頭が「あ(彼)」ではなく、
・「こち(此方)」:現在性(現(ゲン)に在(あ)り、の性)・特定性を表現する「こ(此)」(その項)で表現されれば「こち(此方)」。
・「そち(其方)」:思念的に何かを指し示す効果を起こす「そ(其)」(その項)で表現されれば「そち(其方)」。
・「どち(何方)」:不知・不明を表現する「ど(何)」(その項・9月9日)で表現されれば「どち(何方)」。