◎「ときじ(時じ)」(形シク)

「ときいついつし(時いついつし)」。「ときちつし」のような音(オン)を経つつ、「ときじ」になる。時(とき)が「いつ」であることを表明する。「いつ」には「常・普段」の意(「いつもそう」)と「不定時」の意(「いつ来るの?」)がある(その項・2020年1月6日)。「いつ」が前者(「常・普段」)の場合、「ときじ」は、時なく、常に、いつも、の意。「いつ」が後者(「不定時」)の場合、「ときじ」は時が不明な、時の定まらない、季節はずれの、の意。

「み吉野の 耳我(みみが)の山に 時じくぞ(時自久曽) 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと(不時如) その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来る その山道を」(万26:前者の意。時なく、常に)。

「時じくぞ(時自久曽) 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は」(万317:前者の意。時なく、常に)。

「我が宿の時じき(非時)藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを」(万1627:後者の意。季節外れの)。

「…国見する 筑波の山を 冬なまり(冬木成) 時じき時と(時敷時跡) 見ずて行かば…」(万382:後者の意。まだ早い時期外れの)。

「正月(むつき)立つ春の初めにかくしつつ相(あひ)し笑みてば時じけめやも…(等枳自家米也母)」(4137:前者の意。ときなくつねになるのでは…。※下記)。

※万4137にある「時じけめやも…(等枳自家米也母)」はシク活用形容詞「ときじ」に「~けむ」がついている。文法では、「けむ」は活用語の連用形につく、と言われますが、この場合は形容詞の終止形についている。なぜそういうことが起こるかというと、この「けむ」は、たとえば「言ひけむ」などの場合、それは動詞「言ふ」の連用形に助動詞「けむ」がついているわけではなく、動詞「言ひ」に過去の助動詞「き」の終止形がつきそれに意思推量の助動詞「む」がついているわけでもなく、それは、動詞「言ひ」に理性的気づきを表現する「き」がつき、それに「む」が加わり「き」がE音化し「言ひけむ」になっているのであり(E音化にかんしては「む(助動)」の項)、動詞においてその理性的確認を果たしているのは文法で過去の助動詞の終止形といわれる「き」であり、その形容詞においてその理性的確認を果たしているのは文法でその連体形活用語尾といわれる「き」(美しき…、など)であり、そこに「~む」が加わり「うつくしけむ」や「ときじけむ」になるということです。

 

◎「ときじくのかくのこのみ」

「ときじきふのかきゆのこのみ(時じき生の香来揺の木の実)」。シク活用形容詞「ときじ(時じ)」はその項。時無く、常に、の意。全体は、時無く常に生ふ芳香が揺れるように漂ひ来る木の実、の意。冬季にも枯れしぼまず、長く芳香を保つ柑橘類の実を言う。この木の実は『古事記』では橘(たちばな)と言われる。

「又(また)天皇すめらみこと、三宅連等(みやけのむらじら)の祖(おや)、名(な)は多遲摩毛理(たぢまもり)を、常世國(とこよのくに)に遣(つか)はして、登岐士玖能迦玖能木實(ときじくのかくのこのみ)を求めしめたまひき……………其(そ)の登岐士玖能迦玖能木實は是(これ)今(いま)の橘なり」(『古事記』)。