◎「とき(鬨)」
「トウキ(闘気)」。闘(トウ:たたかひ・あらそひ)の気(キ:感情、心情、意思、気持ち)を現すこと。「ときをあげ」や「ときをつくり」と言った言い方をし、具体的には、それを表現する発声をすることが基本です(もっとも一般的な発声は「えい。えい。おー」)。戦いの一方のそれに対し、それに応えるに他方もそうすることは「ときをあはす」と言う。漢字では「鬨、時、鯨波」といった書き方をする。
「大みやおもてに三千よき(余騎)にてときをとつと(どっと)つくりけれは…」(『平治物語』)。
◎「とぎ(伽)」
「とききき(解き聞き)」。ここでの「とき(解き)」という語のもちいられ方は、「家のごと 解(と)けてぞ遊ぶ…」(万1753)のようなもちいられ方が他動表現になっている。意味は、心情的に緊張凝固状態を溶解させ、楽な平穏な状態にすること。人に、その人がそうなるようなことをし、言う。また、その人が不満や不平その他、誰かにそれを言ってその心情を解放し平安を得ようとするようなことを言えば、それを聞き受け入れる。人にそうしたことをすることが「とぎ」であり、特別なある人にそうした役割の人がつけられたりする。その特別な人の無聊(ブレウ:心配ごとがあり心が楽しまない。閑をもてあます)を慰めるために何かの話でもすれば、それは「とぎばなし」。昔は大名の周辺などにそうしたことを専門にする「お伽衆」もいましたが、意味発展的というか、隠語的婉曲表現というか、(夫婦関係にあるわけではない)女が、夜、男の床(とこ)の相手をすることを「とぎ」と言ったりもする。「とき」と清音で言われた可能性もある。漢字表現の「伽(カ・キャ)」は中国では単にサンスクリット語の音(オン)を表現するために作られた字であり、日本におけるような意味は中国ではない。日本でこの字が「とぎ」になるのは、「亻」(ニンベン)が「人」(ひと)を意味しつつ、「口」(くち)の「力」(ちから)ということでしょう。つまり、「とぎ」は話し相手になることが基本なのです。『類聚名義抄に』「伽」という字はありませんが、「対(對)」に「トグ」、「仾」に「トキ」という読みがある。「仾」は、低(ひく)い、という意味ですが、「人」が「互(たが)ひ」になるという意味で用いられている可能性はある。
「嫡子ニ一人アレハ心苦シ。必ス弟儲テ給へ。トキニセサセント云」(『源平盛衰記』)。
「先に大久保相摸守忠隣が事に座して御勘気蒙りし山口備前守重政は、宗愚と號し蟄居してありしが、その子半兵衛弘隆、二子半左衞門重恒と共に御ゆるしありて、修理亮と改め、もとのごとく御伽に加へらる」(『徳川実紀』)。
「ばばあ『おまへ此年寄をなぐさんで、今逃げる事はござらぬ』
彌『イヤ人違だ。おれではない』
ばばあ『インネさういはしやますな。わし共はこんなことを商売にやァしませぬが、旅人衆の伽(とぎ)でもしてちと計(ばかし)の心づけを貰ふがよわたり。はら散々なぐさんで、只逃げるとは厚かましい。夜の明けるまで私(わし)が懷(ふところ)で寝やしやませ』」(『東海道中膝栗毛』:若い女と間違え老婆の巫子(いちこ)に夜這いしたという話)。