「とげいや(遂げ嫌)」。「とぐや」のような音(オン)を経つつ「とが」になった。「とげ(遂げ)」(その項)は永遠的な安定を得ることですが、「いや(嫌)」は拒否・否定であり、「とげいや(遂げ嫌)→とが」は、それが永遠的安定となることは嫌(いや)だ、という拒否・否定であり、そうした拒否・否定を受けることが「とが(咎)」。すなわち、生命体や人として絶対にあってはならないこと、すなわち「つみ(罪)」、というほど絶対的否定を受けることではない。人としてそういうことは有り得る。しかし、そのままあってほしくない。それが人として、人の社会のあり方として永遠的な安定を得ることは嫌(いや)だ、そう思われることが「とが(咎)」。過失、落度(おちど)、手落ち、欠点と言われるようなことです。もちろん、その咎(とが)のなかでも、その影響が軽度なことから重度なことまで、内容はいろいろです。人にそれを指摘することがこの語の動詞化たる「とがめ(咎め)」。
「應(まさ)に彼(か)の德を讚(たた)ふべし、其(そ)の缺(とが)を謗(そし)らざれ」(『日本霊異記』:「とが」と読まれる「缺」は中国の書に「器破也」とされるような字であり、「欠」と同字と言ってよい字。ここでは法華経を写経することを「とが」と讒(そし)るな、と言っている(この話では謗(そし)った者の口が歪んだと言っている))。
「(この人は)笛吹きことひきなどし給はざりけれど、紅梅のみちのくに紙にまきたるふえ腰にさして、こと爪おほしてぞおはしける。こと(異)人のさやうにおはせば、人もあざけるべきに、よくなり給ひぬれば(身分や見た目などよければ)、科(とが)なくいうにぞ見え侍りし。」(『今鏡』:人が嘲(あざけ)るようなことを「とが」と言っている)。
「さして、かく、官爵を取られず、あさはかなることにかかづらひてだに、朝廷のかしこまりなる人の、うつしざまにて世の中にあり経るは、咎重きわざに人の国にもしはべるなるを…」(『源氏物語』:官位を失うほどではなくただあさはかなことにかかわっただけでも、朝廷の秩序に責任ある人が平然と世間に現れるようにあることは咎(とが)あること(責められるべきこと)。遠慮し身を隠すような態度が必要ということでしょう。恥じ入らず堂々としていてはならず、恥入れということ。そうしないことが「とが」)。
「軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき」(『源氏物語』:軽々しいというそしりを受けるだろうと、いろいろとつつしんでいてさえ、なほいかにも好色と非難がましく言われた。つまり、「とが」とはその程度の非難や謗(そし)り)。
「筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山(あしほやま)悪しかるとが(登我)もさね見えなくに」(万3391:とくに咎(とが)も思いあたたらないのに(あなたは会ってくれない)という歌でしょう。男の歌か女の歌かは不明ですが、たぶん男)。
「萬(よろづ)のとがは、なれたるさまに上手めき、所えたるけしきして、人をないがしろにするにあり」(『徒然草』:咎(とが)は人をないがしろにしほかの人のことを考えられなくなると生まれる)。