「思ひはあれど…」などの、助詞の「ど」。「でを」。「で」も「を」も助詞。その意味では「ど(何)」(その項・9月9日)と同じなのですが、「でを→ど(何)」の場合の「を」は希求を表現する(→「ど(何)」の項)のに対し、「でを→ど(助)」の場合の「を」は状態を表現する(→「を(助)」の項)。また、「ど(何)」の場合、「~で」の内容は不明ですが、「ど(助)」の場合、「~」で言われる動態状態にあることが言われる。たとえば「行けど」と言った場合、それは「行くへでを:行く経にてを(※)」、行くことを経過している状態で…という表現になる。それはただ動態やものごとの経過にあることが言われているだけであり、結果が言われていない。そうした、結果不明な、あるいは、どうなるか明瞭ではない不安な、状態にあることを表現するのが、「ど(助)」。結果を言わないことによりそれへの関心を増しそれを強調するような、そんな表現です。それによりどうなるかはそれに続いて言われるわけですが、累加の「も」が加わり心情強調がなされ「~ども」という言い方がなされることも多く、経過が強調されながら、その経過としては意外なことや逆説的なことが言われる。たとえば、「天気晴朗なれど波高し」。

※ 「行くへでを:行く経にてを→いけど」の、「いくへ(行く経)→いけ」の部分は動詞の已然形と言われ、すなわち、「ど(助)」は動詞の已然形につく。この「いくへ(行く経)」の「いく(行く)」は連体形であり、下二段活用のたとえば「たへ(耐へ)」なら、「たへるへでを→たへれど」になる。形容詞に接続する場合は、たとえば連体形「美しき」に「へ(経)」がつづき「うつくしきへど→うつくしけど」にもなりますが、その場合は形容詞連体形が「り」で情況化し「うつくしけるへど→うつくしけれど」になり、「うつくしけれ」が形容詞の已然形と言われる。

「赤玉(あかだま)は緒(を)さへ光(ひか)れど(杼)白珠(しらたま)の君(きみ)が装(よそひ)し貴(たふと)くありけり」(『古事記』歌謡8)。

「ふたり行けど()行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」(万106)。

「たまきはる 命惜しけど(伊能知遠志家騰) 為むすべもなし」(万804:これは「をし(惜し)」というシク活用形容詞についている例であるが、「をしけれど」にはなっていない)。

「あをによし奈良の大道は行きよけど(余家杼)この山道は行き悪しかりけり」(万3728:「よけれど」にはなっていない)。

「もののあはれは秋こそまされと人ごとにいふめれど、それもさるものにて、今一きは心もうきたつものは…」(『徒然草』:「いふめれど」は、言ふと思われるが、のような意。「めり(助動)」はその項)。

「『よからねど((文字が)上手ではないが)、むげに書かぬこそ悪ろけれ。教へきこえむかし』」(『源氏物語』)。

「そんなこと言うけど」→「けれ(助)」の項。

「しかど」→「しか(助動)」の項。

(ども)

「道(みち)の後(しり)古波陀(こはだ)嬢子(をとめ)を雷(かみ)の如(ごと)聞こえしかども相(あひ)枕(まくら)枕(ま)く」(『古事記』歌謡44)。

「青山の嶺の白雲朝にけに常に見れどもめづらし吾君(わぎみ)」(万377)。

「はろはろに思ほゆるかもしかれども(杼毛)異(け)しき情(こころ)を我が思はなくに」(万3588)。

「風吹波はげしけれども。神さへいたゞきにおちかゝるやうなるは」(『竹取物語』:神が落ちる、とは、雷(かみなり)が落ちる、ということ。「はげしけど」ではなく、「はげしけれども」になっている)。