◎「ど(何)」

「どれ」、「どこ」、「どの」などの「ど」。「でを」。「で」も「を」も助詞。「を」は、たとえば「水をくれ」の場合、目的を表現するわけですが、「水を」と言った場合、それだけで、水を目的としていること、水を希求していること、水がないこと、が表現される。「で」は動態状態を形容する助詞ですが、「~である」は、その「あり」がどういう「あり」なのか表現される。「「~で」を→ど」は、「~で」が希求されることが表現される。「~で」が希求され、「~」がない。「~」を知らない。どういう「~」なのかわからない。たとえば 「「~で」を、の本→どの本」 と言った場合、「~で」が希求されている本、「これで」と具体的特定が希求されている本→具体的特定性にかんし知らない・わからない本、であることが表現される。すなわち、本にかんし、具体的特定性を知らず・わかっておらず、それを知ること、それが分かることが希求されていることが表現される。

「でをこ→どこ」と言った場合、この「こ」は「ここ(此処)」の二番目の「こ(処)」であり、現在性(今、在り、の性)、個別感(具体的現実感)が表現され、「でをこ→どこ」は「~で」が希求されている「こ」、「ここで」と具体的特定が希求されている場所→具体的特定性にかんし知らない・わからない場所、という意味になる。すなわち、具体的特定的場所を知らず・わかっておらず、それを知ること、それが分かることが希求されていることが表現される。

「どれ」の場合は「でをらへ」になる→「れ」の項。

「どち」は「あち(彼方)」の項。

 

◎「ど」

「ド(渡)」。仏教的な意味で、彼岸へ行くことを意味するのですが、これが俗用され、限度を超えた状態、程度の激しさを表現し、(とりわけ関西系で)罵(ののし)りにも用いられる。「ど阿呆」、「ど根性」、「どすけべ」など。

「マンマルテ(で)ト(ど)コモワケモナイ(区別つかない)肥テドブクレタルモノナレドモ…」(『四河入海』)。