◎「と(外)」
「うつよ(打つ世)」。「う」の音は退行化した。「うち(打ち)」は現すこと、現実化すること。「うつ(打つ)」はその連体形。「よ(世)」は経験経過を表現する。現す(現される)経験経過とは、自己に経験を生じさせる世界であり、環境世界です。「うち(内)」と「と(外)」の相対化が生じ、これが対象化した世界となり、「うつよ(打つ世)→と」となり、「うち(内)」と「と(外)」が生じる。つまり、人が生活している。世界の中で生活している。周囲は環境となる。その世界に、自分や、その異性たる相手や、その間に生まれた子や、などの占域たる域ができる。相対的に、そうではない他の域もできる。自己の占域の現れと相対的にそれは現れる(打つ)。それが打(う)つ(現れる)世(よ:世界))。「うつよ(打つ世)→と」。この「と(外)」は「うち(内)」の対となり「うちと(内外)」と言われ、室町時代以降から「そと(外)」と言われるようになっていき、「うちそと(内外)」と言われるようになる。客観的対象の「と(外)」はその対象の表(おもて)という意味になる。
「大宮の内(うち:宇知)にも外にも(とにも:刀尓毛)光(ひか)るまで降れる白雪見れど飽かぬかも」(万3926)。
「にほ鳥の葛飾(かづしか)早稲(わせ)をにへすともその愛(かな)しきを外に(とに:刀尓)立てめやも」(万3386:古代においては、「にへ(贄)」と言われる、新穀を神に供える行事において家人は家を出ていなければならないことがあり、それを言っている) 。
「外 ………ト」(『類聚名義抄』(1000年代頃):ここに「ソト」の読みはない)。
「外 ソト」(『運歩色葉集』(1548年):ここに「ト」の読みはない)。
「(不信ノ人ハ)外ハ玉ニシテ内ハ石ナリ 表(ト)ハ錦ニシテ裏ハ布ナリ」「(信アル人ハ)表ハ布ニシテ内ハ錦ナリ」(『東大寺諷誦文稿』)。
「とつくに(外つ国・外国)」:「其(か)の神山(かみのやま)の傍(ほとり)に置(はべ)らしむる蝦夷(えみし)は、是(これ)本(もと)より獸心(あやしきこころ)有(あ)りて、中國(うちつくに)に住(す)のしめ難(がた)し。故(かれ)、其(そ)の情(こころ)の願(ねが)ひの隨(まま)に、令班邦畿之外(とつくに)に班(はべ)らしめよ」(『日本書紀』:この「とつくに(外国)」は、近代的な国家という意味でのほかの国ではなく、都にはおいておかず、その外へということ)。
「とざま(外様)」:「大臣(おとど)も立ちて外(と)ざまにおはすれば…」(『源氏物語』襖障子を隔てて向こう側にいたということだろう):「外(と)ざまにひねりのきて…」(『枕草子(能因本)』:これは反るように身をひねりのいた、ということか。これは、物の怪を払うための、僧の陀羅尼(だらに)を唱えながらのできごと)。
◎「と(処)」
ある特定的・限定的地域・地点を意味するとして解される「と」や「ど」がある。
「こもりどの(隠處)」(万2443:括弧内は原文)。この「こもりど」は「こもりつよ(隠り強)」の濁音化。この表現が、深く、人知れず隠(こも)っていることを表現する。「こもりづの(隠津之)」(万2794:括弧内は原文)という表現もある。万2443と万2794は表現がよく似ている(たぶん、万2443が万2794を真似している)。この「こもりづの」は「こもりぢゆの(隠れ路揺の)」。隠(こも)り路(ぢ)を、それが現れてしまいそうに不安定にし揺れる清らかにあふれる泉の水、という表現。
「くまとに(久麻刀爾)」(万4357)。この「くまと(久麻刀)」は「くまつよ(隈強)」。程度が強く、ひどく、隈(くま)に、隅(すみ)に、なったところに、の意。
「ほと(火処・陰)」、「まど(窓)」、「ゐど(井戸)」はその項。
・「あてど(当てど)」。この「ど」は「~のと(~の門)」。「~」で表現されることへと入りそれになる、これこそが「~だ」と言う状態になるものやこと。
「相伝の主の頸(くび)斬らん事心うくて、涙にくれて太刀のあてども覚えねば」(『保元物語』:この「あて」は具体的動態)。
「是から何処(どこ)へ行(ゆ)きなさる。当所(あてど)がありますかえ」(「落語」『真景累が淵』:この「あて」は期待)。
「あてど無くさまよう」。
・「とめど(止めど)」。この「ど」も上記「あてど(当てど」に同じ。
「それより又色をかへて、長門舟に乗り掛つて、留途(とめど)のない大騒ぎに」(『傾城色三味線』)。
「とめどなく涙が流れる」。