「たい(た射)」。「た」はT音の思念性(※)とA音の全感、それゆえの情況感により発生感を表現する「た」→「た」の項(この語が語頭についた動詞に「たばしり(た走り)」(その項)、形容詞に「たとほし(た遠し)」などがある)。その「たい(た射)」が完了の助動詞「り」で表現され、「い(射)」のI音がE音化し「たえり→てり」。その場合、「い(射)」がなぜE音化し「えり」になるのかにかんしては、動詞「み(見)」に「り」がつきE音化し「めり」、動詞「き(着)」に「り」がつきE音化し「けり」になるのと同じ理由(→「り(助動)」の項)。意味は、「い(射)」は、日が射(い)、と言った場合、日がなにごとかかなにものかを発進進行させ、事実上、自動表現の状態になる。日がた射(い)、は日が全的発生感をもって射(い)る。日がた射(え)り→日がてり(照り)、は日が全的発生感をもって射(い)る情況が進行していることを表現する。Aが照(て)り、はAがそうなる。それはAの存在がそうなるわけですが、そこには光の印象がともなう。
「六月(みなづき)の地(つち)さへ割(さ)けて照る日にも我が袖乾(ひ)めや君に逢はずして」(万1995:袖が濡れる、とは、涙で、ということ)。
「朝日照る(弖流)佐田(さだ:奈良県高市郡)の岡べに群れゐつつ我が哭(な)く涙やむ時もなし」(万177:これは挽歌。佐田の岡べに草壁皇子の墓処がある)。
「…その花の 照り(弖理)います 高光る 日の御子に…」(『古事記』歌謡101) 。
「見わたせば向(むか)つ峰(を)の上(へ)の花にほひ照り(弖里)て立てるは愛(は)しき誰(た)が妻」(万4397)。
「照 …テラス………テル」「光 …ヒカリ テル」(『類聚名義抄』)。
◎「てれ(照れ)」(動詞)
「てり(照り)」の客観的な主体による自動表現ですが、心情的な発光(や熱の発散)のようなものを表現する。この発光はおかれた情況における自発的緊張や興奮によるもの。きまり悪い、や、気恥ずかしい、という心情になる。
「にた人に目礼するはてれたもの」(『川柳評万句合』)。
「てれるとは はじかわしきこと」(『新撰大阪詞大全』:「はじかわし」は正しくは「はぢかはし」)。
◎「てらし(照らし)」(動詞)
「てり(照り)」の他動表現。光を当てたり、感じさせたりすること。のちには、使役型他動表現として言われ、照(て)る状態に、光を反映する状態に、する、というその表現が、恥をかかせる(遊郭では、客をふる、相手にしない)、といった意味でも言われた。「てり(照り)」の語尾E音化の自動表現「てれ(照れ)」が気恥ずかしさを感じていることを表現するが、その状態にするわけである。
「天地(あめつち)をてらす(弖良須)日月(ひつき)の極みなくあるべきものを何をか思はむ」(万4486)。
「北廓(ヨシハラ)にふるといふ言(コトバ)あれば、河東(フカガハ)にてらすといふ言あり」(「洒落本」『古契三娼』)。