8月19日の「です」の語源に関連し「あんす」「やんす」の語源

 

◎「あんす」

「アウンす(阿吽為)」。語尾の「す(為)」は動詞ですが、「アウン(阿吽)」はサンスクリット語の音訳であり、仏教、とりわけ密教において、ここに法界万有がある、と言われるような語ですが(言語における始まりの音(オン)「ア」と終焉の音(オン)「ウン」ということ。日本語の五十音表で言えば「あ」から「ん」(日本語の五十音表の生成起源は平安時代初期の密教にある)。日常的な表現におけるこの語の応用としては「阿吽(アウン)の呼吸」)、「アウン(阿吽)」というこの語が、相対関係にあるものの完全なる関係完成界、といったようなことを表現する。仮名表記では「あふむ」と書いたりもする。では、そういう意味での「アウンす(阿吽為)→あんす」とはどういう意味かというと、たとえば「行きアウンす(阿吽為)→行きあんす」と表現した場合、その「行く」という動作、その「行く」という動態、に人間的・社会的な完成感があることが表現され、他者の動作にかんしそう言われれば、その他者に関する、尊敬表現というほどではないが、それへの尊重感のある、丁寧な表現となり、自己の動作に関し言えば、自己の格式を表現するような、気取ったというか、見えを張ったというか、そうした表現になる(江戸時代には、(粋な)通人、や、伊達者、や、奴(やっこ)、などがこの表現をもちいた)。

「です」の語源(8月19日)も参照。

「今日は大寄(おおよせ)、ぶあしらひ也(もてなしが良くない)。近いうちにあんせとてせ中(背中)をたたく」(「咄本」『軽口あられ酒』:「あんせ」は「あんすえ」ということか。最後の「え」は相手に呼びかけなにかを確認させる発声であり、「あうんしますよ→うまくいきますよ」のような言い方。これは他者の状態に関し言っている)。

「『…はかまを著けては小べんがなりますまいと思ひ、これ一つ気のどくであんす』といふ」(「咄本」『軽口露がはなし』巻之五、第十五::これは「~であんす」という言い方。この「気の毒」は自分が苦痛や困難を感じていることを表現し、他者を可哀そうに思っているわけではない。ある後家が、はかまを著けては小べんができないから、私は町の番役をするのは困難だ、と言っている)。

「コレ此喧嘩は此馬士(むまかた)が貰ひあんした」(「浄瑠璃」『伊豆院宣源氏鏡』:これは動詞(貰ひ)に「~あんす」)。

 

◎「やんす」

「ヤあんす(野あんす)」。「あんす」はその項。「ヤ(野)」には洗練されていないこと、さらには、品位なく卑しいこと、といった意味あいがあり、「あんす」が「ヤ(野)」であるとは、自分の動作は「あんす」のような関係完成世界の欠けた粗野なもの、ということであり、自己卑下であり、謙遜であり、この表現は「あんす」の謙遜表現になる。「~げす」が「~です」の謙遜表現になるようなものです(「~です」の項8月19日)。他者の行為を「~やんす」と表現した場合でも、もはや「あんす」の発生原意など失われ、謙譲表現(逆に言えば、動作主体たるその人への尊重感のある表現)になる。

「『…先の相手が強かつたか、身の取廻(とりまは)しの悪(わる)さにか知らんでやんす』」(「浄瑠璃」『傾城反魂香』:これは「~でやんす」という言い方)。

「龍王の前に畏(かしこま)り。『最前からの御評議を一ゝあれにて聞(きき)やんすれば…』」(「談義本」『根無草(根南志具佐)』これは動詞(聞き)に「~やんす」。お聞きすれば、のような表現)。

「こんな所へきやんすはどふしたこと」(「浮世草子」『風流夢浮橋』:これは来た人を尊重した表現)。