「つや(艶)」が二音重なりその光沢ある印象の永続感が表現されている「つやつや」もあるのですが、ここでの「つやつや」は、まったく、のような意のそれ。これは「つゆやつゆや」。語尾の「や」は感嘆・詠嘆発声たるそれですが(→「ふふめりし花の初めに来(こ)し我れや(和礼夜)散りなむ後に都へ行かむ」(万4435))、「つゆ」(その項)は「つゆゆ(露揺)」。ささいな、それがあることが気づかれもしない(あるのかもしれないが気づかれない)些細な変動を意味する、まったく、のような意の、「つゆ知らぬ」などという、「つゆ」。 つまり、「つゆやつゆや→つやつや」は、「つゆ」であることの感嘆強意表現。「つゆ」は現象が気づかれぬほど微かであることも表現し(→「つゆ」の項)、「つやつや」はそんな気づかれない些細な現象を思い出し発見しようとするような、深く集中しなにことかを見たり、考えたりすることも表現する。後者のそれは「つらつら思ふに」などの「つらつら」にも意味は似る。
「『げに、つやつや忘れて。見て参れ』と仰せあり」(『とはずがたり』:まったく忘れていた)。
「木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず」(『徒然草』:隠したはずのものがすべてない)。
「つやつやおもふに、当世傾国の威儀すたれ…」(『色道大鏡』)。