「とひもり(問ひ守り)」。「とひ(問ひ)」は思念追跡努力が起こることですが(→「問ひ(とひ)」の項)、「もり(守り)」という動態は、見ていることに起源があるのですが、それは思念的に何らかの内容が維持されることをともなう。すなわち「とひもり(問ひ守り)」は、思念追跡とそれによる思念維持がなされること、ということであり、具体的には、単位化した数量を推量・思量し維持する。個体数であれ高さであれ重さであれ何であれ、計器をもって計測するのではなく、ただ見るなり思うなりし、思量しそれを維持する。「山の高さをつもり。井の深さをつもり」は、計器などで実測するわけではなく、単なる見た印象や、周囲のなにかとの比較、井の深さなら、なにかを落とし、底に到達するまでの時間、などから、それらを推測する。ある推測的意思内容を持ち、それにもとづき人に対応し人に影響を与え、推測・予想通りに人を動かそうとした場合、人をためしてみる、や、人を騙しあやつる、といった意味にもなる。また、「み(見)」は調べ、判断することも表現し(→その項)、「みつもり(見積もり)」は、かかるであろう費用を推測すること。(かかるであろう)経費をつもる。別の動詞による、かかった経費が積(つ)もる(積載する)、という表現もあり得る。人の推測、それによる意思内容一般(あらかじめ思っていること)が表現されれば、「どういうつもり?」。
「女郎の身にして十年勤むるうちの損は何ほどかつもりがたし」(『好色盛衰記』:堆積しがたいのではなく、その総量はどれほどか推測しがたい)。
「なんでもたかいほうへおとすから(なんであれ高い方へ落札させるから)、ぎりやう一ばい(技量一倍)、つがもなく、たがく(多額?)、つもりやれ(見積しろ)」(「黄表紙」『莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)』:こんなに高くていいのか?という「や」などなく。「たがく」は一般に「たかく(高く)」と読まれ、その方が文章は自然なのであるが、原本に明らかに濁点がある。書記ミス?。「つがもなく」はその項)。
「これいかんとなれば、縮(ちぢみ)を一端となすまでに人の手を労する事かぞへ尽しがたし。なかなか手間に賃銭を当て算量(つもる)事にはあらず」(『北越雪譜』)。
「マァよく積(つも)つても見さつしやりまし」(「洒落本」『道中粋語録』:想像し考えてもみろ)。
「中にて思ひけるは、いやいや、かかる事は我(わが)こころをひきみんとて人をつもるにてあるらん」(「評判記」『名女情比』)。
「エエ、偽り多き遊女の慣(ならひ)、愕(おどろ)くべきにもあらねども。是程まで能(よ)ふも能(よ)ふも此左近をつもりしな」(「浄瑠璃」『夕霧阿波鳴渡』:これは人をあやつる)。
この「つもり」に関し、刑事裁判その他、社会的に最も問題になるのは、殺人の故意、すなわち「殺すつもり」ですが、これも「殺す」という動態が無い状態から有る状態への移行、すなわち生命活動が失われていない状態から失われている状態への移行や移行の容認への思念化があれば一般的に「殺すつもり」はある。個別的・具体的行為においては、行為者(犯人)の現実行態によって相手(被害者)に影響が及びそれにより相手に結果が生じている場合、その結果を生じた過程において、生命活動が失われていない状態から失われている状態への移行や移行への思念化があればその行為において「殺すつもり」はある。この「つもり」の認定には本人がどのような言語表現をするかは問題にならず(本人の自白のみでは有罪にも無罪にもならず、思念化が生じたか否かに関する本人の記憶保存にも絶対性はなく)、客観的な認定は、事実経過全般に他者に対する生命保存が認められるか認められないかで判断されるでしょう。行為後の救済努力・蘇生努力は、生命活動がある状態から無い状態への移行の認容は、行為の矛盾性・意思の矛盾性ゆえに、行為者の生命保存努力のみでは否定に信用性は無く、自己の生命保存努力の超越(例えば救急を呼ぶ)が必要です。
「つもり(積もり)」(1)は7月21日。