◎「つとめ(努め・勤め)」(動詞)
「うつつよめ(現強め)」。語頭の「う」は退化し「つよ」は「と」になり、「つ、つよめ」のような音(オン)が「つとめ」になっている。「うつ(現)」は、ありありとした現実感、明瞭な現実感を表現する→「うつ(現)」の項。夢のなかにいるような、心地よい想にいる状態ではなく、ありありとした現実にあることが「うつ(現)」にあること。これが、心地よい快楽的な想いではなく、理性的に、「こうあらねば」という思いにある状態にあることを表現した。そうした思いにある動態努力、理性努力が弱まることを拒否する動態、にあること、が「うつつよめ(現強め)→つとめ」。仏道に励む者がそのために行うさまざまなこと(たとえば、毎日読経をおこなう)なども「(お)つとめ」と言い、のちには、会社で働き毎日出勤することなども「(お)つとめ」と言う。
「『大將(おほきいくさのきみ)は民(おほみたから)の司命(いのち)なり。社稷(くにいへ)の存亡(ほろびほろびざらむこと)是(ここ)に在(あ)り。勗(つと)めよ、恭(つつし)みて天罰(あまつつみ)を行(おこな)へ』」(『日本書紀』:「勗(キョク)」は『廣韻』に「勉也」とされる字。「罰(つみ)を行(おこな)へ」は、罪(つみ)を犯(をか)せ、という意味ではありまん。罪(つみ)を理性的に統御せよ、ということ。すると罪(つみ)の理性的拒否が起こり、罪とは忌避の起こりであり、忌避の起こりなく忌避をおこなう者への忌避が起こり、その忌避により人が死にもする(「つみ(罪)」にかんしてはその項))。
「磯城島(しきしま)の 大和(やまと)の国に明らけき 名に負ふ伴(とも)の緒(を) 心(こころ)つとめよ(都刀米与)」(万4466:「緒(を):原文は、乎」は、子孫、の意)。<br/>
「我が聞きし耳によく似る葦(あし)の末(うれ)の足ひく我が背(足痛吾勢)つとめたぶ(たまふ)べし」(万128:噂に聞く未熟な葦(あし:足)のようにうまく進めないあなた。せいぜいがんばってね(あなたは気取ってるだけね)、のような歌。この歌は、歌を送った相手に足の疾(病や傷)があり、見舞いとして送った歌、という説明書きがあるが、それは歌の意味がわからずそう言われた、ということであり、この歌はその前の万126、127とセットになっているものだろう)。
◎「つとめて」
「つとみえて(つと見えて)」。「つと」は「つとに(夙に)」の項(6月6日)。「つとみえて(つと見えて)→つとめて」、すなわち、夜の終局を意味するその「つと」が見えて、とは、早朝よりもさらに早い時間に、ということです。
「暾 ……日初出時也 明也 豆止女天又阿志太」(『新撰字鏡』)。
「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず」(『枕草子』)。
「つとめて少し寝過ぐしたまひて、日さし出づる程に出でたまふ」(『源氏物語』)。
・動詞「つとめ(努め・勤め)」と助詞「て」による「つとめて(努めて)」という表現はもちろん別にある。「力(つと)めて戯談にして笑ってしまはうとしたが」(冗談話にしようとつとめたが…)。「先徳の釈なり、仏法の道理なり、努力(つとめて)疑ふべからず」(『沙石集』:けして~するな)。