◎「つつまし(慎まし)」(形シク)
「つつふみあやし(つつ履み怪し)」。「つつ」は動態の同動・連動を表現する→「つつ(助)」の項。「ふみ(踏み・践み)」は実行し実践にはいること→「ふみ(踏み・践み)」の項。「あやし(怪し)」は疑惑が湧き出る状態になること(その項)ですが、「つつふみあやし(つつ履み怪し)→つつまし」は、つつ、履み怪し、ということであり、なにごとかをしつつ、その完全な実践、完遂に疑惑が感じられる状態であること。まったく気配としてもその意向は感じられずまったくその意向がないというわけではなく、まったくなにもしないわけでもない。しかし、その完全な実践に入りそれを完成させるか確信ある判断が成り立たない。つまり、動態が抑制されているわけです。その原因はさまざまであり、それをおこなった場合、人にどう思われるかという配慮や恥ずかしさもあれば、なにか良くないことが起こるのではないかというおそれの場合もある。
この語の語源は、一般に、動詞「つつみ(包み・慎み・障み)」の形容詞化と言われている。その場合は「つつみあし(包み悪し)」「つつみはし(包み愛し)」「つつみあやし(包み怪し)」等になりそうであるが、どれも現実の用いられ方において意味が不自然になる。
「『そのこととさふらはて(で)は、なれなれしきやうにやとつゝましうさふらふうちに…』」(『和泉式部日記』:理由となるなにごともなしに訪れてはなれなれしいと思われるのではと躊躇(ためら)われるうちに…)。
「なほ参らせたまへとあれど、世の騒がしければ、よろづつつましう思して、すがすがしうも思したたず」(『栄花物語』:いらっしゃいとは言われるが…)。
「やをら昇りて、格子の隙あるを見つけて寄りたまふに、伊予簾はさらさらと鳴るもつつまし」(『源氏物語』:簾(すだれ)が鳴ることにも行動が抑制されてしまう。これは女の寝所へ向かっている)。
「「夢にや見ゆらむ」と、そら恐ろしくつつまし」(『源氏物語』:いま自分に起こっている現実は夢なのではないかと、それに積極的になれない)。
「『こよなうほど経はべりにけるを(とても長くお会いしていませんが)、思ひたまへおこたらずながら(あなたを思うことに怠りなどないながら)、 つつましきほどは(喪中にあり)、さらば(そういうことなので)、 思し知るらむやとてなむ(事情はおわかりいただけるかと)…』」(『源氏物語』)。
「つつましい生活」。
◎「つづまやか」
「つづめあやか(約めあやか)」。「つづめ(約め)」(その項)は、不要な部分を摘み取り全体を詰めること。集約・要約すること。「あやか」は目や、心を惑わすが、不快ではなく、心惹かれ、美しかったり、完成感を感じたりしている状態になっていること(→「あやか」の項)。集約・要約し美しかったり、完成感を感じたりしている状態になっているとは、たとえば、ある人が長い時間をかけて(つまり、多い言語量で)ある教えを述べた(A)とする。その教えを他のある人が非常に少ない言語量で表現した(B)とする。そのBが、その簡略さゆえに教え(A)の内容が損なわれたり失われたりしているものではなく、その本質をとらえ、それを的確に表現したものであった場合、BはAを「つづまやか」に表現したものとなる。あるいは、長く表現される情景が和歌の三十一字で的確にすべて表現されている場合、その和歌は「つづまやか」なものとなる。また、この語は、人の生活のあり方や日常的な人間関係のあり方が表現された場合、粉飾的な贅沢や自己宣伝的な積極的な態度が減殺した質素や倹約や控えめ(よけいなことはせず簡潔)、と表現されるものとなっていく。
「理微(ふか)く言約(ツツマヤカ)なり、故」(『大慈恩寺三蔵法師伝』承徳三(1099)年点)。
「約 …………ツヅマヤカニ」(『類聚名義抄』)。
「人はおのれをつづまやかにし、おごりを退けて、財(たから)をもたず、世をむさぼらざらむぞいみじかるべき。昔より賢き人の富めるはまれなり」(『徒然草』)。
「ツイデニ疑ハシキ事、并ニ古人ノ詩ノ會得シガタキ所ナドヲモツヅマヤカニ書録(ショロク)シテ」(『授業編』:要点をとらえて、ということ)。