「つけいり(付け入り)」。「つけ(付け)」は「つき(付き)」の他動表現。他動表現ですが、「つき(付き)」が接着することを表現し、その他動表現たる、接着させることを意味する「つけ(付け)」ではありません。この「つき(付き)」は、「めつき」「思いつき」などの、思念的に、想念的に、なんらかの内容が活性化する「つき(付き)」であり(→「つき(付き・着き)」の項)、その他動表現「つけ(付け)」は、なんらかの内容を思念的に、想念的に、活性化させること。語尾の「~いり(入り)」は、「消え入り」などのように、まったくその動態になることであり、「つけいり(付け入り)→つくり」は、まったく、なんらかの内容を思念的に、想念的に、活性化させる動態になること。なんらかの内容を思念的に、想念的に、活性化させる努力とは、それを現実化する努力です。つまり、「つくり(作り)」は、なんらかの思念的、想念的内容を現実化する努力をすること。ちなみに、「つけいり」には「相手の弱みにつけいり」といった表現もありますが、その「つけ」は「それにつけても」などと言う場合のような、何かに思念を得、という意味の「つけ」であり主体が客観的な自動表現の「つけ」です(たとえば相手の弱みに思念を得、そこへ入り。この「つけいり」という表現は、その昔、合戦において敵の退却の機に乗じてさらに攻撃することを表現したことが起源になっている)。

ものであれことであれ、人はさまざまな内容を「つくる」。その場合、前記のように、この「つくり(作り)」は何らかの思念・想念を生きたそれとして活性化させることなのですが、「お菓子をつくりました」といった用い方がなされている分には何の問題も無いのですが、「神が天地を創造(つく)り」「神が世界を造(つく)り」といった用い方がなされる場合、極めて深刻な問題が起こる。

「真木柱(まけはしら:麻気波之良)ほめて造れる(豆久礼留)殿(との)のごといませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変はりせず」(万4342:「との(殿)」は建造物のこと。この「まけはしら」は「まきはしら(真木柱)」の古代東国方言(訛り?)らしい。これは東国の防人の歌。「おめ(面)」も方言らしい。通常は「おも(面)」)。

「夫(か)の大己貴命(おほあなむちのみこと)と、少彥名命(すくなひこのみこと)と、力(ちから)を戮(あは)せ心(こころ)を一(ひとつ)にして、天下(あめのした)を經營(つく)る」(『日本書紀』)。

「あしひきの山田をつくり(豆久理)山高み下樋(したび)を走(わし)せ…」(『古事記』歌謡79)。

「甚(イト)大(オホキ)ニ悪(アシ)ク姧(カダメ)ル妄語(イツハリゴト)ヲ作(ツクリ)テ朕(アレ)ニ對(ムカヒ)テ」(『続日本紀』宣命)。

「『この籠(こ)は、金(かね)を作りて色どりたる籠なりけり。松もいとよう似て作りたる枝ぞとよ』」(『源氏物語』:金を加工して、の意。「金(かね)をつくる」は金銭を工面することを意味したりもする)。

「庭を秋ののにつくりておほむ物かたりのついてによみてたてまつりける」(『古今和歌集』詞書:「おほむ」は「おほみ(大御)」の変化)。

「かぐや姬はつみをつくり給へりければ…」(『竹取物語』)。

「言ひ紛らはして、また人なきさまを強ひてつくりはべる」(『源氏物語』)。

「俎(まないた)に魚を置て、作らむとす」(『今昔物語』:魚の生体を食べる状態に処理する。刺身を「おつくり」と言ったりもする)。