◎「つぐのひ(償ひ)」(動詞)

「つきにうぬおひ(調に己負ひ)」。「つきんうぬおひ」のような音(オン)を経、「つぐのひ」になった。「つくのひ」とも言う。「つき(調)」(その項・4月17日)は後世で言う「税(ゼイ)」ですが、「つきにうぬおひ(調に己負ひ)→つぐのひ」、すなわち、税(ぜい)の状態で己(うぬ)が、自分が、負(お)ふ(負担する)、とはどういうことかというと、税(ぜい)は公的な、その権威による、公的な世界における負担であるのに対し、己(うぬ)の世界で税(ぜい)を負ったような状態になるということです。全体が「ゆひ(結ひ)」になり総化するための義務や負担を負う(→「つき(調)」の項)。つまり、国に対する税ではなく、社会生活一般、人間関係一般における税とでもいうようなもの。そういう税負担が発生することが人間にはある。なぜそうなるのかにかんしては、人間はそういう知的生命体だから、ということであり、そうとうに破滅的な病変が生じていない限り、人間はその負担から自由にはなれない。「つぐのひ」は、そうした、調(つき)の状態で己(うぬ)が負ふこと、負ひ目を負うこと、であり、その負ひ目をなくす努力も「つぐのひ」という。その、己(おの)の世界の税のような負担にはその発生の仕方として二種ある。一は、相手からなにかを得、その対価を相手に得させる場合。対価支払い義務です。ザルと大根が交換されザルを受け取っているなら、「つぐのひ」として相手に大根を渡さなければならない。その場合、物を引き渡すことが「つぐのひ」であるとはかぎらない。それは、こと、動態、労働であることもある。収穫後に米を一俵与える、という約束で収穫を手伝い、それをおこなった場合、その収穫労働は米一表の対価としての「つぐのひ」です。収穫を終えたにもかかわらず米一表が引き渡されなかった場合、米一表やそれを引き渡すことは相手が負っている「つぐのひ」です。後世において、たとえばAが年間給与一千万の契約である企業で働いた場合、その労働は「つぐのひ」であり、一千万は企業が労働者に負う「つぐのひ」です。ただし、それは古代ではそう表現されるということであり、後世ではそうは言われない。発生の仕方の他の一は、相手になんらかの損害や被害を与え、その被害補修や穴埋めのようななにかを相手に与えたり相手のためになにごとかをしたりする場合です。これも類型的にはさらに二つあり、一は社会生活において他者に損害を与える場合、他の一は、宗教上の教えとして、仏教的な罪障やキリスト教的な罪(つみ)の補修や穴埋めのようになんらかの負担を負うこと。これらも「つぐのひ」になる。

以上はすべて「つぐのひ」にはなるのですが、どういう場合に「つぐのひ」が発生するかにかんして一般的に明瞭ななにごとかがあるわけではありません。たとえばAB間になにごとかがあり、Aは、Bは自分(A)に対する「つぐのひ」を負った、と思ったが、BはAに対する「つぐのひ」を負ったとは思いもしないということもあり得る。

「つぐなひ(償ひ)」という語はこの「つぐのひ」の意味発展のような語ですが、それにかんしては5月2日。

「一年ヲヘテ借銭一倍ニナリヌ。纔(わずか)ニモトノカス(かず:数)ヲ返テイマタ利ノ銭ヲツクノハス(ず)」(『三方絵詞』)。

「馬養(うまかひ)、祖父丸(おほぢまろ)二人,傭賃(ちからつぐのひ)して年價(年決めの賃金)を受く」(『日本霊異記』:これは漁業関係の労働をおこなった)。

「非我傭(ツクノフ)て力得物之處」(『龍光院本妙法蓮華経』「巻二 妙法蓮華經信解品第四」 平安後期点:我が力を傭(ツクノフ)て物を得べき處に非ず)。

「(「さしちはさん(Satisfação)」とは)我等が科(とが)の償(つくの)ひを御主ぜず-きりしとへ調(ととの)へ奉る事なり」(『どちりいな-きりしたん(Doctrina Christão)』)。

 

◎「つくねん」

「つくネン(木菟然)」。「つく(木菟)」(その項・4月26日)は鳥の一種であり、別名、フクロウ。「ネン(然)」は呉音。意味は、そうであること、かくのごとし。「つくねん」は、「つく(木菟:フクロウ)」の状態であること。「つく(木菟)」が目を見開いて前を見まっすぐに背をのばしただ立っているような、そんな印象であること。一人でぼんやりと遠くへ目をやりながら動きもせずに物思いにでも耽っている(あるいは何も考えていない)ような状態になっている。まるで周囲の環境から遊離したような状態になっている。「つくと」という表現もある。

「つくねんとみとれこそすれ望月夜」(「俳諧」『崑山集』)。