◎「つき(尽き)」(動詞)

「といひくい(~と言ひ悔い)」。「といひ」が「つ」になり「くひ」が「き」になっているわけです。「Aと言ひ悔い→Aつき」。人が、期待しても無駄な、そのものは当然有る、そのことは当然そうだ、と思っても、もはやそれはなく、そうではない状態になりその状態はもはや帰らない状態になっていることをそう表現し、これが動詞化した。あれは…と期待し、悔いる。あれは…と期待し…それはもはやない。それははもはや尽(つ)きた。終わった。つまり、「つき(尽き)」とは、悔い、残念さ、それへの思ひのこもった終わりであり、その消失です。期待し、それはない。この動詞は上二段活用。

「にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽(つき)きめやも(己等都奇米也母) 」(万4458:言(こと)と言ひ悔いめやも→言(こと)と言ひ悔いることなどあるだろうか、いやけしてそんなことはない)。

「…嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひもいまだ尽(つ)きねば ……… 神葬(かむはぶ)り 葬(はぶ)りいまして…」(万199:「尽(つ)きねば」は現状の逆接。尽きていないのに、の意。尽きていないから、の順接ではない。「已然形+ば」のこの表現は順接も逆接も表現する。「いまだ」と言ひ悔いねば→いまだつきねば(「いまだ」と言い悔いていないのに。まだ悔いているのに))。

「是の如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸(やうや)く(少しづつ)尽きぬ。結局は此の国佗国(あだしくに)にやぶられて亡国となるべきなり」(『日蓮遺文』「本尊問答抄」)。

 

◎「つき(突き・築き・吐き)」(動詞)

「いつき(射着き)」。「い」の脱落。「つき(付き)」はその項参照(4月19日)。「Aをつき」は、Aを目標として射(い)、Aが思念的に活性化した状態になること。進行的に、何かの思念が活性化した動態になること。射るような動態で何かに作用すること。日常的な動作でもっとも一般的なのは、棒状のものをその状態線状に進行させ何かに動態同動させ活性化させること(突き)。「鐘(かね)をつく」も撞木で鐘にそのような動作をする。「杖(つゑ)をつく」もそのような動作。「ちはやぶる  神や切りけむ  つくからに  千歳の坂も  越えぬべらなり」(『古今和歌集』:これだけでは意味のわからない歌ですが、これは神が切りとった杖だ。これをつけば千歳の坂も越えてしまう)という歌。「膝つき」は、地に膝をつけ、という意味にもなりますが、地に膝を打ち込むような動作をすることが権威への謙譲をあらわしもする。「額(ぬか)づき」は、額(ひたひ)を床や地にそうするように(たとえば仏像などに)平伏している。情況に対し主体がそのような動態をあらわせば「悪天候をつき出発する」。蒸した米に棒状のものでそうすれば「餅をつき」。建築物の土台を丸太などでそうし、土台をかためることも「つき」であり、この「つき」は土地に堤(つつみ)や建造物などを作ることも意味する。杭(くひ:丸太状のもの)で土を突き、突き固め、土台を作れば「くひつき(杭突き)→きづき(築き)」。棒で何かを突くように体内から排出すれば「(へどを)吐(つ)き」(吐瀉し)。言葉を発することがそれと同じようであれば「嘘(うそ)をつき」。

「大魚(おふを)よし 鮪(しび)突(つ)く海人(あま)よ…」(『古事記』歌謡:「鮪(しび)」は鮪(まぐろ)のような類の魚)。

「御諸(みもろ)に 築(つ)くや玉垣(たまがき)… 」(『古事記』歌謡)。

「『…誰だと思つて、たはことをつきやァがる…』」(『浮世風呂』)。