「といき(と生き)」。「と」は助詞にあるそれであり、思念的になにかを確認する。思念的確認とは同動の表現でする。たとえば「AとB」と言った場合、Bの存在動態がAの存在動態と同動していることが表現される。たとえば「花と散る」は、なにかが花と時空を同じくして、花とともに、散ることも表現しますが、散る動態が花という存在動態と同動すること、それは花たる散るであること、が表現される。「といき(と生き)→つき」の場合は、「~と散(ち)り」ではなく、「~といき(生き)」です。「いき(生き)」は、生命として活性化していること。この「いき(生き)」という動詞は古くは四段活用。つまり、たとえば「Aと生(い)きB→AつきB」は、Aたる生きBであり、Bは「Aと」存在動態が活性化しているBであり、Bは「Aと」同動しているBです。たとえば「柳の枝つき地(柳の枝と生き地)」は、地は「柳の枝と」存在動態が活性化している地であり、地は「柳の枝と」同動している地です。「柳の枝が地につき」は、柳の枝が地にと生(い)き→柳の枝が地にと存在動態が活性化している・柳の枝が地にと存在動態が同動している。
このものやことの存在動態の活性化、生きたそれとしての活性化、同動化は人の生活経験において多種多様におこり、「つき(付き)」という動詞の応用は非常に多種多様です。
他動表現は「つけ」ですが、「名をつき(名をつけ)」や「能をつき(能をつけ)」のような、他動表現に分類される「つき」もある。ただ、これは「を」に、目的ではなく、状態を表現する効果があることによるもの。「名をつき」は名の状態で思念的に活性化する。「若やかなる程(ほど)のおのがじしは、塵(ちり)もつかじ、と身をもてなし…」(『源氏物語』:これは、けして塵(ちり)もつけない、と他動表現に読める。しかし、言っていることは、微かな塵でさえけして活性化することはないぞ、と言っている)。
「地に足がつく」(地にと足が存在動態が同動活性化している)。「人について行く」(人にと動態が同動活性化して行く)。「彼が味方につく」。「やっと駅につく」。「風につきて里にほふがなつかしく」(『源氏物語』:風にと存在動態が同動活性化し里(さと)が匂う。風にのって(風が)里のにほひがする)。「火がつく」(火という現象(燃えること)が思念的に存在活性化する)。「気がつく」。「想像がつく」。「あた心つきなぱ」(『竹取物語』)。「つきづきし」(いかにもそれは存在動態が活性化する。いかにも合っている)。「秋づけば(秋につけば)…」(万4111:秋が存在動態が活性化しているから。この「つけ」は已然形。「つけば」は、現状がそうだから、の意)。「里心がつく」。「狐つき」。「根づく」。「実がつく」。「目につく・鼻につく」。「目つき・顔つき」(目(顔)の思念的存在動態の活性化。目(顔)の様子・印象)。「値がつく」。「名がつく」。「かた(型)がつく」(→「かたづき(かた付き)」の項)。「身につく」。「位置について。ヨーイ…」。「仕事につく」。「がたついた椅子。ごろつき」。「そのことについて一言」。「つかぬことをうかがいますが…」。
「高き嶺(ね)に雲のつくのす(高き嶺(ね)に雲がつくように) 吾(われ)さへに(弱い私でさへそうであるように) 君につきなな(都吉奈那:自分をしっかりと守って) 高嶺(たかね)と思ひて」(万3514:「のす」「なな」はその項)。