「つきゆひ(付き結ひ)」。「つき(付き)」は、後世では接着することを表現することが最も一般的ですが、原意は思念的な同動の気づき(理性的確認)を表現することが基本です。「接着剤でAとBがつき」と言った場合、A・B二つの対象が客観的に同動する。また、「目つきが悪い」などと言った場合の「目(め)つき」は、現実存在の目(め)に同動する思念的な目(め)、感じられ思われる、想に現れる目(め)、目の様子、雰囲気、であり、それが現実の目と同動している動態であることが「目(め)つき」。いずれにしても、それは、ものやことたる客観的な存在同士であれ、客観的な存在と想の世界の存在であれ、二の同動があることが表現される。「ゆひ(結ひ)」は一にすること、多数の個の集まりを総にすること、全体を総通の努力状態にすること、を表現する。つまり、「つきゆひ(付き結ひ)」、すなわち、「つき(付き)」を「ゆふ(結ふ)」こと、とは、客観的現実たることと客観的現実たることとであれ、客観的現実たることと想的思念的たることとであれ、同動している二が一に、客観的に同動している多数の一や、個が、総に、なること、それをそうすること。全体が「ゆひ(結ひ)」になること。それにより或る民草(たみくさ)全体が「ゆひ(結ひ)」になり、「くに(国)」が「ゆひ(結ひ)」になる。この語は、後世で一般に「税(ゼイ)」(収穫の一部を抜き取る意)と言われる語ですが、後世の「税(ゼイ)」で国民が、国民と政府が、国や世界が、「ゆひ(結ひ)」になっているか否かはまた別の問題です。少なくとも日本では、そして原意は、税(ゼイ)とはそういうものということです。
「秋七月(あきふみづき)、大水(おほみづ)あり。是の秋に、租調(たちからみつき)を復(ゆる)す」(『日本書紀』:「復」は、とりたてるべき税をもどす、という意味で、こうした意味になる)。
「因(よ)りて郡內(こほりのうち)の百姓(おほみたから)に給復(つきゆる)したまふこと一年(ひととせ)」(『日本書紀』)。
「四方(よも)の国より 奉る 御調(みつき:美都奇)の船は 堀江より 水脈(みを)引きしつつ 朝なぎに 楫(かぢ)引き上り」(万4360)。
「奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ」(万4094)。
「調布 ………調布読 豆岐乃沼能(つきのぬの)」(『和名類聚鈔』)。