「ちゆきかひ(路行き交ひ(変ひ・代ひ))」。「かひ」は交感を表現する「交(か)ひ」なのですが、「変(か)へ」「代(か)へ」の自動表現。「変(か)はり・代(か)はり」ということ。「ちゆき(路行き)」が変(か)はる・代(か)はる、とはどういうことかというと、たとえば、「蘇我の子らを 大君の 使(つか)はすらしき(菟伽破須羅志枳)」(『日本書紀』推古天皇二十春正月:「つかはす」は動詞「つかひ」に尊敬の助動詞「し(す)」のついた尊敬表現)、の場合、「大君のつかふ蘇我の子・AのつかふB」になるわけですが、これが、Aの路(ち)行(ゆ)き代(か)ふ(代(か)はる)B、であり、Bの路(ち)行(ゆ)き(Bの目的性のある進行)がAの路(ち)行(ゆ)き(Aの目的性のある進行)になるBなのです。Bによる路行きがAによる路行きになる。「つかひとなれ」、「私はつかひです」のように、この語は当初は名詞でしょう。かりにこれを動詞としてもちいるなら、「つかひ」となることを志願するBが「私がちゆきかひます(路行き代(か)ひます):私が路(ち)行(ゆ)きを代(か)はります→私がつかひます」のように、自動表現になるわけですが、これが、ある人を「つかひ」とすることを「(ある人を)つかふ」と動詞で表現され、これは他動表現になる。たとえばAが声のとどかない遠方の誰かに何らかの意思を伝えたかったり情報を届けたかったりしたとする。Aは、自分の意思に従い動き、相手にも信頼されそうな者・Bを選び、意思を伝え、Bは相手のところへ行き、Aの意思を伝える。Aの路行きがBの路行きに変(か)はりBの相手への路行きがAの路行きに代(か)はる。Bは相手にAの意思を、Aの言語を、情報を、運んだ。文字がもちいられるようになれば、文字が書かれたなにかを運ぶ。Bは、なにかを運ぶだけではなく、相手のところでなにごとかをすることもある(ことを運ぶ状態です)。「つかひ」はなにごとかの用のために人を送る「派遣」にもなり、その者は「使者」にもなる。やがて、相手になにごとかを伝えたりなにごとかをするという意思の実現のために人をではなく、意思や願望の実現一般のために、物をもちいる場合もその物を「つかひ」と言われるようになる。その「つかひ」は「利用」や「活用」を意味する。木の実を細かく砕きたいと思い、石を使う、なにかを切断したく、刀を使う。やがては肉体の一部や心情も言い、難しい問題に頭を使い、人間関係に心をつかひ、気をつかふ。技術も使い、金(かね)も使う。

「天飛ぶ 鳥もつかひぞ(都加比曾) 鶴(たづ)が音(ね)の 聞こえむ時は 我が名問はさね」(『古事記』歌謡85:天飛ぶ鳥が思いを届ける)。

「梅の花咲き散る園に我れ行かむ君がつかひ(都可比)を片待ちがてら」(万4041:相手からの、その思いを伝える「つかひ」を待つ(あなたからの使いを待つことは梅の花の咲き散る園に誘われるような思いになる、ということでしょう。これは天平二十年の歌ですが、この歌の前後で言っている「藤波」が藤原を意味していると考えるのは考え過ぎか:これは田邊史福麻呂という人物の大伴宿禰家持への歌))。

「中納言磯のかみのまろたりの、家につかはるゝをのこどものもとに『つばくらめのすくひたらばつげよ』との給ふを承て…」(『竹取物語』「をのこども」と言われる人をつかふ)。

「今はむかし、竹とりの翁といふものありけり。野にまじりて竹をとりつゝよろづの事につかひけり」(『竹取物語』:竹をつかふ)。

「『かく、けしからぬ心は、つかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを』」(『源氏物語』:心をつかふ)。

「九尺二間の臺處(台所)で行水つかふとは夢にも思はぬもの」(『にごりえ』(樋口一葉):「手水をつかふ」、「風呂をつかふ」、「弁当をつかふ」といった表現は、それらを利用する、ということなのですが、排泄したり、裸体を洗ったり、食ったりすることを間接的に表現したもの)。