「でいふうちゆゆし(「で?」言ふ打ち由由し)」。「でいふう→づう」「ちゆゆ→づう」になっているわけです。「でいふうち(「で?」言ふ打ち)」は、「うち(打ち)」は現すことであり、なにごとかがあり、そのなにごとかの原因主体であり周囲の関心がその者に集まったとき、起こったそのことにかんし「で?」「それで?」「だからなんなんだ?」と言っている、そのことにかんし何も言わせない、態度、を現すこと。「~言ふ、打ち」は、~と言っていることを現す。そういう(周囲を睨むといったことも含めて)態度になる。それが「ゆゆしい」(普遍的経験を動揺させる。常軌を逸している)。それが「でいふうちゆゆし(「で?」言ふ打ち由由し)→づうづうし」。

「トきいて武者之介。刀をなげだし、仁王だちにたつてゐる。がんりう無念のおもひ入。武者之介がかほをにらみ、づうづうしくおきてはだをいれ。大小をさして是よりせりふあれば…」(『花江都(はなのえど) 歌舞伎年代記』「元文三(1738)年戊午(つちのえうま)」)。

・「づうづう」という語がある。「あねのせきはすこしもさはがず通通(ヅウヅウ)と丸太にこしをかけながら…」(「洒落本」『跖(セキ)婦人伝』(寛延二(1749)年))。

この「づうづう」は「でいふでいふ(「で?」言ふで?」言ふ)」。この「づうづう」と「づうづうし」の関係は微妙であり、この語を語幹とする形容詞が「づうづうし」、あるいは「づうづうゆゆし」である可能性もないではないが、「づうづう」には「づうづうし」のような一般性はない。「づうづうし」「づうづう」の基本に「あいつは「づう」だ」というような表現があり。それが「づうづうし」や「づうづう」になっているのかもしれない。