◎「ついで(序)」

「いついつつへ(常何時つ経)」。語頭の「い」は無音化しつつ「ついづへ」のような音(オン)を経、「ついで」になった。「いつ」には、常・普段の意のそれ(「あなたはいつもそう」)と、不定の時間を表現する何時の意のそれ(「それはいつやるの?」)がある→「いつ(何時・常)」の項(2020年1月6日)。「いついつ(常何時)」は、常(つね)の、それがあたり前の、何時(いつ)、ということ。それがどういうときにあるか―それが常であたり前の何時(いつ)。続く「つ」は所属の助詞。「経(へ)」は経過。すなわち、「いついつつへ(常何時つ経)→ついで」は、常(つね)の、それがあたり前の、何時(いつ)たる経過。常(つね)なるそれが何時(いつ)かたる 経過。これは、「常(つね)の」が、自然や世のあり方として常(つね)、当然そうあり、そうあるべきこと、という意味で、あるべき順序、のような意にもなり(「四季はなほ定れるついであり」(『徒然草』))、こういう場合世の中の人は普通そうあるように、という意味で、そのときに誰でもそうするように、のような意味になる(「郵便局に行くついでに買い物もする」)。

「A登場。ついでB登場。ついで…」のような「ついで(次で)」は別語。

「大地沃壤 寒暑調和にして時(とき)序(ツイテ)を乖(そむ)かじ 日月星宿 常度無虧」(『金光明最勝王経』:寒さ暑さはその時にはそうある常の秩序を裏切ることがない)。

「やがて、そのついでのままに、この中納言より他に、よろしかるべき人、またなかりけり」(『源氏物語』:世の常として当然そうなるように)。

「中宮………ついでなくて軽らかにはひわたり花をももてあそびたまふべきならねば…」(『源氏物語』:これは、ことのついでにあちこち行く、という意味ではなく、中宮は、常にそうあるという、公的にそれが承認されるという、ことがなければ花をめぐりあちこち行くわけにもいかず)。

「年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄りたまひしものを…」(『源氏物語』:いつも、面(おも)だたしいことの余波(なごり)の恵(めぐみ)のように来てくださったのに(今はこんな悲しいことでお出でいただいてお会いする…))。

「京へ上(のぼ)るついでに(途上の周囲の情景を)みれば」(『土佐日記』)。

「話のついでに…」。

 

◎「ついで(次で)」(動詞)

「つぎにて(継ぎにて)」の音便。二つの対象に持続的な同動感を生じさせて、の意(→「つぎ(継ぎ)」の項)。

この語と「ついで(序で)」(別項)の関係は微妙であり、「Aに行くついでにBに行く」などは「ついで(序で)」になるであろうけれど、「Aに行って、ついでにBにも行った」などは本項の「ついで(次で)」であろう。「ついでにこれもやっておいて」も「ついで(次で)」であろう。

「已載於白馬還獻紫宸 尋(ツイテ)蒙下詔賜使翻譯」(『大慈恩寺三蔵法師伝』(永久四(1116)年点):皇帝に献上し、尋(ツイデ:そして)、皇帝は勅をくだし、翻訳せしむることをたまわった)。

「次 ツイデ ツイヅ」(『類聚名義抄』)。

「現に Dr. Werner 自身もその下女が二重人格を見たそうでございます。次いで、ウルムの高等裁判所長の Pflzer と申す男は…」(『二つの手紙』(芥川龍之介))。

「母はなお詞(ことば)を次いで、『………』」(『野菊の墓』(伊藤左千夫))。