ここでは動詞は連用形で提示されていますが、この助動詞の連用形は文法的に「て」とされますが、「ち」との混同も無く、分かりやすいので項目は終止形「つ」で提示します。

この「つ」は、T音の思念性(思念性とは想念作用)とU音の遊離感のある動態感により、何かと何かに空間的時間的同動・連動が生じる。動態に関しそれが生じた場合、思念(想)と現在(現(ゲン)に在(あ)り)の同動が生じ(客観的にある状況と主観的な認めが同動し)、動態は理性化し理性的に確定する(たとえば「行きつ」なら「行き」という動態が理性的に確定する)。この「つ」は完了の助動詞と言われるわけですが、そこで起こっていることは理性化であり、表現される動態が理性的確定の世界に入る。それはむしろ完成と言った方が起こっている事態には近い。文法的に「完了」と表現されるこの言語表現世界は英語で言えば動態や事象が分詞(participle)の世界に入ることです。英語の場合、完了表現は、過去分詞と言われる、動詞の確認形で表現された動態をhave動詞で保持するという、効果も怪しいような相当な苦労をしてそれが起こるわけですが(たとえば「He has gone(彼に、行った、という動態が保持された→彼は行ってしまった(もういない:彼に、「行く」という動態があった、と言っているのではない。彼はもういない))」)、日本語では「つ」の一音で一瞬にしてそれが起こる(もっとも、動詞は連用形になる。つまり、助動詞だけでそれが起こるわけではなく、動詞の活用と助動詞によって起こる)。ともかく、何かが完全に了(をは)ったり了(す)んだりするわけではないが、文法的にはこれは「完了」の助動詞と言われている。完了と言われるわけですから、一般にそれは過去のことであることが多い。「見つとも言うな会ひきとも言はじ」(『古今和歌集』)。しかし、英語にも現在完了・過去完了・未来完了がありますが、日本語でも過去とは限らない(ただし、have動詞が過去形だから過去完了というような英語のような形式性はない。それは言語表現により決まる)。「この後も讒奏(ザンソウ)する者あらば当家追討の院宣下されつとおぼゆるぞ」(『平家物語』:将来そうなるぞ、と言っている)。それに関連して、「~つべし」という表現があり、この表現は「つ」に過去的な印象があり、「べし」に将来見通し的な印象があることから表現が矛盾しているような印象を受けることがある→「親のため妻子のためには…盗みもしつべきことなり」(『徒然草』)。この「つ」も完了世界でのことを言い、たしかにそうなるのだ、と言っている。つまり、未来完了。未来完了にはほかに「つ」の活用形「て」による「~てむ」「~てまし」という表現もある。「行きつあらむ」という表現でもあれば、それは現在完了。「妹(いも)を思ひ眠(い)のねらえぬに秋の野にさ男鹿鳴きつ妻思ひかねて」(万3678)は現在完了。「泣く涙衣ぬらしつほす人無しに」(万690)。これも現在完了。

同じように完了の助動詞と呼ばれる「ぬ」との違いを一言すれば。「つ」は思念的確認が起こり、「ぬ」は認了感のある情況を認知する。つまり、「ぬ」は「つ」に比べ表現が客観的なのです。たとえば「鳴きつ」は印象的に一声鳴いた。「鳴きぬ」は今鳴いた、鳴いている(あるいは切迫してすぐ鳴きそう)。

「行きつ戻りつ」、「くんづほぐれつ(くみつほぐれつ・組みつ解れつ)」、「とつおいつ(とりつおきつ・取りつ置きつ)」(手に取ったり、またそれを離してそこに置いたり、買おうか買うまいか迷っているような状態)等の「つ」もこれです。つまり、「つ」の同動感は動態の連動も表現する。