◎「ちゃんこ」

「チャワンコウ(茶碗講)」。日本での用い方ですが、「講(コウ)」には皆で何かをするという意味がある→「念仏講」「富士講」「頼母子講(たのもしコウ)」その他。「チャワンコウ(茶碗講)」は皆で、茶碗で何かをすること。何をするのかと言えば、茶碗で飯を食う。なぜ茶碗かと言えば、後の「どんぶり(丼)」にあたるように、当時としてはそれが器として大きかったからです。つまり「チャワンコウ(茶碗講)」は大きな器で皆で飯を食うこと。これは力士の世界で飯を食うことを表現している。ちなみに、「ワン(椀)」で何かを食うことは「ワンコウ(椀講)」。これは「わんこそば(わんこ蕎麦)」という蕎麦の独特な食い方の表現になっている。

 

◎「ちゃんと」

「チャンと(張と)」。「と」は助詞。「チャン」は「張」の音(オン)。「張」の漢音・呉音は「チャウ」ですが、20世紀の中華人民共和国での音(オン)は「チャン」のような音(オン)。「ちゃんと」はそれが現れているということ。「ちゃんと」という表現は遅くとも1700年頃の浄瑠璃にありますが不自然ではないでしょう。「張」は日本では「はり」と読まれ、情況的になにかが現れることを意味しますが→「池に氷が張る」「テントを張る」、中国語では、開(ひら)く、や、広(ひろ)げる、という意味がある。「張嘴(チョウシ)」は、口(くち)をひらく。鳥がおさめていた羽をひろげれば「張翅(チョウシ)」。「新張(シンチョウ)」は新しい事業の開始。つまり、「はり(張り)」が環境に、情況的に、現すことであるのに対し、中国語の「張(チャウ・チャン)」は、まだ現れていないものやことが現れること、ものやことが開くこと、を表現するわけです。「ちゃんと」の「ちゃん(張)」はそのような意味で用いられる。すなわち、なかった情況がひらくように現れる。それに新鮮さや覚醒したような明瞭感がある。それがあることが「ちゃんと」。

「…と、知つたればこそ大将が、此の寒い夜をうごうごと、丸寝して居る心底を、すもじ遊ばせ粹様(すいさま)と、凭(もた)れ給へばちやんと退(の)き」(「浄瑠璃」『傾城無間鐘』(1700年初演):「すもじ」は、推量(スイリヤウ)、の語頭音による語であり、相手の思いを推し量ること)。

「木葉ヲソメル十月ノ時雨モマダフラヌニ。神ナビノ杜ハ、ハヤ カネテ チヤント色ガ染マツタ」(『古今和歌集遠鏡』)。

「まんまとわたしをたばかり女房には紙子をきせ、其身はちやんとゑよう(栄耀)らしいわかい女中に立まじり、三味線ひいてゐけつりくさり」(「浄瑠璃」『嫗山姥(こもちやまんば)』:「ゐけつり」は、「ゐ(居)けつらひ」ということでしょう。「けつらひ」は「けつれあひ(気連れ合ひ)」であり、わざとらしい気(け)を常にともなっていて、気どりすましている、ということ)。

「朝むつくり起(おき)ると旦那殿が、ちやんと帳場にすわり」(『松翁道話』)。

「(散らかった子供の部屋を見て母親が)ちゃんとかたづけなさい」(片付けられた状態に新鮮さや覚醒したような明瞭感がある)。