3月15日の「ちゃうど(丁度)」の語源に関連し、中国語の「法」にかんしてです。「法」の音は、漢音「ハフ」、呉音「ホフ」、中華人民共和国音「ファ」。慣習的に「ハッ」や「ホッ」という音(オン)もある。

 

(中国における「法」という語のもちいられ方)

まず、中国における「法」という語のもちいられ方にかんしてですが、中国の古い書『礼記』の「檀弓・上」に次のような記述がある(原文は旧字)。

「孔子在衛、有送葬者。而夫子観之曰、善哉為喪乎、足以為法乎、小子識之。子貢曰、夫子何善爾也。曰、其往也如慕、其反也如疑。………」

すなわち:

孔子は衛にいた。「衛」は古い国名。 葬を送る者があった。その地で、死者(この場合は親)の遺体を墓地へ移動し、埋葬し、帰ることが行われ、孔子とその弟子たちはそれを観(み)た。 そして孔子が言った。 「善(よ)いなあ…。喪をなしている。あれはもって法となすに足りている(あれは十分に法だ)。お前たち、よく覚えておきなさい(善哉為喪乎、足以為法乎、小子識之)」。「識」は何かを他の何かと区別して特別に記憶することです。

ここで権威たる孔子により立法が行われたわけです。

そして弟子の子貢が言った。

何を善いと、そのようにおっしゃるのですか?(原文の「夫子」は敬称であり、この場合は孔子への尊称です)。

子貢は立法理由を尋ねたのです。

すると孔子が言った。

「(埋葬へ)行くときには親を慕いその後をついていくようだ。(埋葬を終え)帰りは親がいないことが信じられず途方に暮れているようだ」

だから、人として望ましい、そうありたいと想う葬礼だということです。

すなわち、「法」は、望ましい、そうありたいと想う状態を意味している。すなわち「法」とは、望ましい状態、であり、ああだったら…こうだったら…と、そうありたいと想う想自我内容なのです。

たとえば日本人が、深い感銘を受ける葬礼を見、感動し「あれは法(のり)だ」「あれは沙汰(さた)だ」と言うことは起こらないし起こってもいない。あるいはヨーロッパ人なりアメリカ人なりが感動し「あれはlawだ」「あれはGesetzだ」と言うことも起こらないし起こってもいない。しかし、中国語においては「あれは法(ホウ)だ」「あれこそが法(ホウ)だ」は自然なことです。仮に全地球上の、それにあたると思われる語が「law」と翻訳されたとしても、中国人が(厳密に言えば漢族人が) 深い感銘を受ける葬礼を見、感動し「あれはlawだ」と言うことは自然にあり得ても、他国人(厳密に言えば他族人)が「あれはlawだ」と感動することは起こらない。

すなわち、地球上のそれにあたると思われる語がすべて「法(ホウ)」と翻訳されそう表現されたとしても、中国の法と他の世界の法は意味が異なる。脳ニューロン反応たるその反応態様が中国人(漢族人)と他国人(他族人)では異なる。世界の法は真理への努力です。しかし、中国における法は、ああだったらいいなぁ…という、「想」です。真理への努力たる法は中国にはない。

 

(「法」という字にかんして)

「法」という字にかんしては、「法」は略字であり、原字・正字は「灋」であり、それは「廌」と「去」と「水」の合字です。後世、「廌」が省略され「法」になった。

「去(キョ)」は『説文』に「人相違也」とされる字であり、表現されることは人の生活関係・社会関係の切離であり、人による人の意味的否定、価値的否定、意味的価値的切離です。法の正しさは意味的・価値的切離をともなう。この切離が法の正しさを現実とするために現実的暴力的に強行されればそれは刑罰となる

「水」は、法の正しさを決定する域は人の域とは透明な水で隔てられ、書かれる「水」はその隔てでしょう。

では、「廌(チ)」とはなにか。これは正・不正を決める想像上の獣です。これに触れると不正な者は角で突かれるとか、そういったことがあったらしい。つまり、この獣はある人の法の正義・不正義を決める。これは古代の日本やヨーロッパであった、煮えたぎった湯や赤く燃えた鉄による神判のようなものではない。正・不正は獣が決める。そこで試され現されるのは認識が自己の身体と等価ほどのものかではない。そこで試され現されるのはその「想」が正直か不正直かであり、正直な想が正しく、それが正しいか否かは獣が決める。それは「想」たる獣です。中国語では法が正義か不正義かは獣が決める。 ならば、その法の正義に、想の正義に、矛盾が生じた場合どうするのか。その正義を保障するのは真理性ではない。中国では法の正義、想の正義は実行進行により保障され、武威・暴力により維持される。中国人はそれに矛盾は感じないのかと言えば、それは感じない。なぜなら、中国語は時制もない言語であり、言語に言語の真性を保障する機能がないから。言語の真性とは真理へと向かう性であり、その性は因果思考努力となって現れる。因果思考とは過去と現在の矛盾処理機能であり、それによる不安からの解放です。中国語ではその機能の発動は起こらない。

 

(「法」の音(オン)にかんして)

「法」の音(オン)にかんしては、藤堂明保著『漢字語源辞典』は「法」の同音系、それゆえに同意系、と見る語として「凡」(漢音「ハン」・呉音「ボン」)や「乏」(漢音「ハフ」・呉音「バフ」)その他をあげている。それによれば、その普遍的意は「枠をかぶせる、平らな面でおおう」だそうです。(「法」の中華人民共和国音(オン)をそこで用いられている発音記号でアルファベット部分だけ表記すれば、fa)。

日本に伝承される「ハフ」は古い音(オン)でしょうけれど、この「ハフ」は「放浮(ハウフ:fangfu)」か。放(はな)たれ浮(う)かぶ、とは、遊離化している何かを表し、これが人に沸き起こる想を表現する。想の湧起とそれを、すなわち想状態が起こることとその状態を、表現する。「想像」や「夢想」といった言葉にもなっているその「想」の湧起とその状態である。「想(サウ:xiang)」は「喜思放(キシハウ:xisifang)」か。「喜」(惹かれ夢中になること)は中華人民共和国音(xi)では「ヒ」のような「い」のような音。K音系の音のそうした退行化は中国語に起こる。思いを放つ、はなにかを思うことであり、目標や対象があり、互(たが)い、という関係がそこにうまれ(「相互・相思相愛」)、そこには思う「なにか」があり、それはありさま・あり方として現れ(「人相・異相」)、「心」がつき心にあらわれたそれ、そのものやこと、が表現されれば「想」。つまり、表現の成り立ち過程や視点が異なるだけで「法(ハウ)」も「想(サウ)」も意味実態は変わらない。