「チャウド(打度)」。「チャウ」は「打」の呉音。意味は、打(う)つこと。「打(う)ち」は、現(あらは)すこと、現実化すること(→「うち(打ち)」の項)。「度(ド)」は『說文』に「法制也」とされる字。これは中国語の「法(漢音、ハフ、呉音、ホフ)」の本質にふれることなのですが、中国語において「法」とは、想、であり、こうだったら…、と心に想(おも)はれることであり、「制(セイ)」は整(ととの)へることであり、「法制」とは想の整えであり、それは整えられ、「制」にあるとき想の自由はない(想は無限に自由なのです)。つまり、「チャウド(打度)→度を打(う)つ(現(あらは)す)」とは、法制を現すことであり、想が制されることを現すこと、現実化することであり、想の自由のないことを現すこと、現実化すること。抽象的な言い方でわかりにくいですが、たとえば、服の大きさにかんし様々に無限の想がある。そしてあるとき、それを着る人の体の大きさ・現実、によりその想は自由はなくなる。そのとき、その想は現実により整えられ、自由ではなくなる。それが打たれ(現れ)ることが「チャウド(打度)」。そのとき、その服はその人にちゃうど合っている。そのできごとは法(想)の制を(度を)、現した(打った)。その服はその人にちゃうどいい。すなわち「ちゃうど」は、ものやことの想に自由のないことが現れること、現実化すること。「丁度」という漢字表記は、「丁(テイ・チャウ)」は、あたる、という意味にもなり、まったく的外れというわけでもないですが、当て字。仮名表記は「ちやうど」「てうど」「てふど」といった書き方をする。

「度(ド)」にかんしいま少しふれれば、人が生きることにかんし、自由な想が整えられ自由のない「度(ド)」を得たとき、「得度(トクド)」。これは出家を意味する。人の一切の苦厄がその自由がなくなり完全にととのえられたとき「度一切苦厄」(『般若心経』)。環境の寒さ(冷たさ)暖かさ(暑さ)は自由であり、それがあるときある場所で自由を失ったとき、それがその時その場所の「温度」。整(ととのへ)にはさまざまなレベルがあり、「度」はそれだけで「程度」という意味にもなる。「お前の甘い物好きはどがすぎる」は、自由の整(ととの)へが過剰なのではなく、人一般のあり方として程度が過剰。

「『桃栗勾當(ももくりこうと)の坊殿の所でお目にかゝつたまゝてうど三年になります』」(「滑稽本」『浮世風呂』:「勾當(コウタウ・コウト)」は、この場合は、盲人の官のひとつ。「桃栗」は桃栗三年、という冗談)。

「『…お前さんのも、お二人(ふたり)男のお子だから、二番目のお兄(あに)イさんは、丁度能(よ)いお跡とりさ』」(「滑稽本」『浮世風呂』:娘しかいない家に聟として入り跡取りになる最適な条件が整っているということでしょう)。

「在原ノ業平ノ歌ハコゝロガアツテ、詞タラヅ。テウドシボンダ花ノ色ハナウナツテ、ニホヒノ残ツテアルヤウナ」(『古今和歌集遠眼鏡』:これは1700年代最末期のものであり、『古今和歌集』の序の一部をこのように言い換え説明している。在原ノ業平ノ歌には無限に印象や評価が広がり展開するが、ここでいったようなことに整えられるということ)。

「向かふ敵を八人斬り伏せ九人に当たる敵が甲の鉢にあまり強う打ち当てて目貫の本より(刀が)丁と折れくつと抜けて川へざぶとぞ入りにける」(『平家物語』:折れるところはいろいろあり得るが、折れたのは目貫の本そのもののところ)。

「小太刀打ち振り、走りかかりて、ちやうど切り給へば、切先頚(くび)の上にかかるとぞ見えしが、首は前にぞ落ちにける」(『義経記』:「切る」と言いうるところはまさにそこしかないという状態で切る。つまり、一撃で一瞬に相手を断ち切るような状態で切る)。

「ちゃうど一センチ」。「ちゃうど二時」。「塩加減はちゃうどいい」。「あの程度のところがあいつにはちゃうどいい」。「〇〇寺の庭がちゃうどこんな風(ふう)だった」。