◎「ちはや(襷襅)」

「いちはや(いち早)」。「い」の脱落。「いち」は進行感を表現する「い」による、「いたり(至り)」その他になる、動詞「いち」の連用形。「はや(早)」は「はやし(早し)」の項。 「いちはや(いち早)」は、表現としては「いきはや(行き早)」に似ている。進行が早い。事態の成行が早い、ものごとが効率よく進む、もの、の意。服の袖を働きやすくまとめるものであり、巫女などが雑事的なことをする際に用いる「たすき(襷)」です。後には、同じような目的の仕事着(外出着?)も「ちはや」と言う(巫女の衣裳と言えば、上白、下赤がよく知られますが、あれの上に羽織るように着るものです)。

「襷襅 ………織成襷 本朝式用此字云 多須岐 今案呼出音義未詳 ………襅讀 知波夜 今案未詳」(『和名類聚鈔』:「襷(たすき)」「襅(ちはや)」はどちらも和製漢字)。

「かぐらとて、をとめごがまひのてづかひも、みなれぬさまなり。ちはやとて、あこめのやうなるものをきて、はれなまひとて、みたりよたりたちて、いりちがひてまふさまも、きようありて…」(『とはずがたり』)。

 

◎「ちはやひと(枕詞)」

枕詞です。「ちはやひと(血逸人)」。「はや(逸)」は、意外な経過への感銘や驚きを表現し「はやし(早し・逸し)」「はやり(逸り)」といった語になるそれ→「はやし(早し・逸し)」の項。「はやひと(逸人)」は「はやと(隼人):薩摩隼人(さつまはやと)、のそれ」であり、理性に欠けた蛮的な語にもなりかねませんが、「勇者」にもなる語。「ちはやひと(血逸人)」すなわち、血(ち)が「はやひと(逸人)」であるとは、自然のそれということであり、この語は地名「うぢ(宇治)」に(というよりも、本質的には「うぢがは(宇治川)」に)かかる枕詞ですが、宇治川がそのような川と表現された。宇治川は瀬の早い、そんな印象の川だったのである。この語は、語の発生としては、枕詞というよりも、慣用的比喩表現というようなもの。宇治川はそのような川として広く知られていたということです。

「ちはやひと(知波夜比登)宇治の渡(わた)りに 渡り瀬(ぜ(是):『万葉集』歌謡43では「涅(で)」:これは「出(で)」であり、渡るその時)に 立てる 梓弓(あづさゆみ)檀(まゆみ)…」(『古事記』歌謡52:この歌は、事実上、歌意未詳、の状態になっているようですが、「伊岐良牟(いきらむ)」は「射きらむ」。「射(い)」は、いうまでもなく、矢を射ること。「きり」は、「やりきる」などのそれであり、完全になにごとかをし済ませること。「伊斗良牟(いとらむ)」は「射取らむ」。獲物を射て取ること。歌全体の意は、上記のような意の宇治川の渡りに、弓を立てた(これは発射動作であり、つまり、矢を射た)。射きろうという思いはあった。射取ろうという思いはあった。しかし、あなた(大山守命:仁徳天皇の異母兄)やその妻を思い、ためらわれていた(しかし、もはや限界を超えた。ちはやひと宇治を渡った)。

「ちはやひと(千早人)宇治川波を清みかも旅行く人の立(た)ちかてにする」(万1139:「立(た)ちかてにする」は、一般に、立ち去りがたくしている、と解されている。「たち」は(旅立ちなどの)「発(た)ち」ということか。原文は「立難為」。「~かてに」は「待ちかてに(待ちきれない状態で)」(万845)などのそれですが、この「立(た)ちかてにする」は、文字通り、立ちきれない、立っていられない、ということでしょう。「ちはや(血逸)」があまりに純粋で清らかで激しく、常人たるこの「旅行く人」には自己を維持して立っていることができない(流されそうだ))。