◎「ぢか(直)」

「ヂキカン(直間)」。「キ」は無音化した。「ヂキ」は「直」の呉音(→「ぢきにそうなる」(すぐにそうなる)。漢音は、チョク)。意味は、曲がったりせずまっすぐであること(質的にも曲がらない(変異しない)、何も媒介しない)。「間(カン)」はなにかとなにかの、そのなにかではない域。「ヂキカン(直間)→」すなわち、なんの媒介もないなにかとなにかの、そのなにかではない域、とは、たとえば、なにも媒介しない(直(ヂキ)の)AとBのそのAでもBでもない域(間(カン))。直(ヂキ・チョク)の間(カン)の、や、直(ヂキ・チョク)の間(カン)で、ということ。「ぢか~」や「ぢかに~する」は「~」がそこでのAとBがそうした域の状態であったり動態であったりする。たとえば「ぢか談判(直談判)」は交渉の双方当事者たるAとBがなにも媒介しない(直(ヂキ)の)AとBのそのAでもBでもない域(間(カン))の状態である談判。「ぢかに~する」は動態「~」がそのようにある動態になる。たとえば「ぢかに手を触れる」は、手と、触れるなにかがAとBの関係になりそれがなにも媒介しないA・Bの間(カン)となって動態がある。「ぢかに会ってお話しする」は、会う当事者双方がそうなる。

 

◎「ちかし(近し)」(形ク)

「ちいきはやし(路行き早し)」。「ち(路)」はその項(2月24日)。A点へ行く経路に1と2がある場合、2を行った方が到着に効果的である場合、2の方が路(ち)行き早く、ちかい。到達目標にA点とB点がある場合、B点の方が到達に効果的であればBの方が路(ち)行き早い→ちかい(近い)。空間関係だけではなく、時間の経過関係、物の量・形(形態の類似性)、計測単位量、社会的関係、ものごと(その類似性。たとえば、考えの内容)などに関しても言う。「目がちかい」は、物を距離的に寄って見ようとするので、近視であることを意味する。「耳がちかい」は周囲が言っていることなどに敏感であること。聴力が弱まっていることは「耳がとほい(遠い)」。

「あしひきの山も近きを(知可吉乎)ほととぎす月立つまでに何か来鳴かぬ」(万3983空間的に近い)。

「『近う人の住んだる所とも見えず。これはされば何と成り給ひぬる事共ぞや』」(『平家物語』:これは、空間的に近いのではなく、時間的に近い。すなわち、最近人が住んだとも思えない)。

「昔の御けはひにかけても触れたらむは人は知らぬ国までも尋ね知らまほしき心あるを、数まへたまはざりけれど近き人にこそはあなれ…」(『源氏物語』:わかりにくい一文ですが、「かけても」は、かげ(陰)でも、であり、ものかげからでも、ということでしょう。御気配に、ものかげからでも、触れたら(そういう条件下におかれた場合:触れたらば、と同じ表現になる)、人は(浮舟を) 知らぬ国までも尋ね知りたくなる、と思うが…、しかし、正式に認められはしていないが妹であり…、ということ。「近き人」は(血縁的な)関係が近い)。

「扇(あふぎ)よりはじめ、青朽葉どものいとをかしう見ゆるに、所の衆の、青色に白襲(しろがさね)をけしきばかりひきかけたるは、卯の花の垣根ちかうおぼえて、ほととぎすもかげにかくれぬべくぞ見ゆるかし」(『枕草子』:印象が近いということ)。

「功(いさをし)造物(おのづからなる)に隣(ちか)くして、淸猷(きよきみち)世(よ)に映(て)れり」(『日本書紀』:(国や世を治めることの)功(いさをし:功績がある)とは天の恵みたる自然の造物のようなものであり、それにより清きみちきは世界に映(て)る)。