◎「ち(千)」
「いつい」。語頭「い」の脱落。「いつ」は、「い」が進行感を表現するところの、「いたり(至り)」や「いと(甚)」その他になっている、動詞(「いたり(至り)」などの項参照・下記)。語尾の「い」は指示代名詞のようなそれ(「い」の項参照)。「いつい→ち」は、進行したそれ、という表現ですが、終局、のような意味です。これは数(かず)「千(セン):1000」を意味する単位名ですが、遠い時代には千(セン)が終局単位だった時代もあったのでしょうし、当初は、10の10倍の10倍といった概念で用いられたものではなく、多さの極まりというような、ただ単に、非常に多い、(時間的には)非常に長い、といった意味で言われたものでしょう。「ちとせ(千歳)」。「ちぐさ(千草)」。「ちよにやちよに(千代に八千代に)」。
「百(もも)に千(ち)に人はいふとも…」(万3059)。
◎「いたり(至り)」(動詞)
進行感を表現する「い」による「いつ」という動詞があったと思われる。「い」は進行感を表現し、「つ」はそれを思念的に確認する(同動感を表現する→「つ(助動)」の項)。この動詞により「いと(甚)」、「いたり(至り)」、「いたし(致し)」(「いたり(至り)」の他動表現)、「いちじるし(著し)」、「いちはやし(いち速し)・いち早く」等の言葉が生じている(「イチヤク(一躍)」などの「イチ」は中国語「一」の音(オン)です)。動詞「いつ」は情況の進行、程度の進行を表現し、進行に同動的(客観的にある状況と主観的な認めが同動する)完了感 (確認的結了感)を生じさせる。究極まで、極限まで、行きつくことに完了感が生じる。その「いつ」の自発動態が「いち」、何かを極限まで進行させるその他動態が「いて」、その「いて」が有るという動態のその自動態が「いたり」。活用語尾K音の同じような変化として「いき(生き)」(自動)、「いけ(活け)」(他動)、「いかり(生かり)」(自動)、「いかし(生かし)」(他動)がある。この「いたり(至り)」は「いたし(致し)」と自動・他動の関係にある。「いたり(至り)」は、極限・究極まで進行する情況になること。「遠くして雲居(くもゐ)に見ゆる妹(いも)が家(へ)にいつかいたらむ歩め黒駒(くろこま)」(万3441:本文細注の方の歌)。
◎「ち(箇)」
個数をあらわす「ち」。たとえば「ひとつ(一つ)」「ふたつ(二つ)」…のように、「つ」が個数を現す語になりますが、「ち」がそうなることもある。たとえば「娘(をとめ)のい隠(かく)る岡(をか)を 金鋤(かなすき)も 五百(いほ)ち(伊保知)もがも 鋤(す)き撥(は)ねるもの」(『古事記』歌謡99)。「三十(みそち:弥蘇知)あまり二(ふた)つの相(かたち) 八十種(やそくさ)と 具足(そだ)れる人の…」(『仏足石歌』)。この「ち」は「つうち(つ内)」。「つ」は上記の個数を確認的に表すそれ。たとえば「五百(いほ)ち」の場合、「五百(いほ)つ」は五(いつ)つの「ほ(百)」が確認的に表されている(「いほ(五百)」は「いつほ(五百)」の「つ」が無音化している)。「いほつうち(五百つ内)」はその五つ百(ほ)を形成しているその「ほ(百)」内を、そこにある個々を、意味する。この「いほつうち(五百つ内)」の「つ」は無音化し「いほち(五百ち)の金鋤(かなすき)」。