◎「たんまり」

「タンマンリ(湛万里)」。二つ目の「ん」は退化した。「湛(タン)」は、「たたへ(湛へ)」、すなわち、なにかが極限・終局にいたる情況が現れる状態にすること(→「たたへ(湛へ・称へ)」の項)。「万里(マンリ)」の「里(リ)」は距離単位であり、「万里(マンリ)」は、象徴的に、非常に長い、果てがない、とうこと。「タンマンリ(湛万里)→たんまり」は、なにかの極限・終局にいたる情況の現れが際限なく、はてしなく、つづくこと。これはものにかんしてもことにかんしても言い、助詞がつく場合は「たんまりと」という言いかたをする。この語は1700年代末期ころから流行しだしたものらしい。

「首尾よくいけば礼(れい)は沢山(たんまり)」(「人情本」『春情花朧夜(はなのおぼろよ)』)。

「『(呼ばれ)ヲイ、今行くよ。あれ御覧じましな。二度三度のお迎(むかひ)だ。ホンニホンニ、たんまりと湯へも這入(はいら)れません。ホゝゝゝゝ』」(「滑稽本」『浮世風呂』)。

 

◎「たっぷり」

「たつひイウリ(経つ日悠離)」。「ひ(日)」は、太陽ではなく、その日(ひ)に、あの日(ひ)に、などと言う場合の「ひ(日)」。生活記憶たる一日の意のそれ。「たつひ(経つ日)」は経過するそれ。「悠離(イウリ)」は遥(はる)かに離(はな)れること。「悠」は呉音「ユ」漢音「イウ」ですが、「い」と「ゆ」は交替し現実には「ユウ」になる。「たつひイウリ(経つ日悠離)→たっぷり」は、経過する日々が遥かな昔へと離れ遠ざかり消えていくような状態であることを表現する。これが、ものごとが進み極まり、限界が無いことを表現し、ものの現れに際限がないことも言われるようになる。

「『…たつふりと面白い事をうたふて聞(きか)せ給へ』」(「浮世草子」『野傾友三味線』)。

「お輿添(こしぞひ)の中居(なかゐ)が、いつより白粉(おしろい)たつぷりと、ぬり笠(がさ)さげてあとにつき…」(「浄瑠璃」『井筒業平河内通』)。

「『…男は凡(およ)そ中位の色男だが、頭へ青黛(せいてへ)を泥(なす)つて、チト否身(いやみ)たつぷりの拵(こしら)へ…』」(「滑稽本」『浮世風呂』)。