◎「たんか(啖呵)」

「たんかをきる(たんかを切る)」という言いかたをする。意味は「たんか(啖呵 俗) 歯切のいゝ江戸弁をいふのであるが、抗弁、争論、嘲弄罵倒することもいふ」(『隠語辞典』(昭和8(1933)年))というもの。「タンクヮ(胆果)」。「タン(胆)」は、内臓名としては胆嚢(タンナウ)を意味するのですが、「きもたま」とも言われ、決断力や勇気が出てくるところと考えられている。「胆力(タンリョク)」などという言葉もある。「クヮ(果)」は原意は木の実ですが、行為や社会的な作業の実りたること→「結果」、という意味にもなり、それによりものごとを迷いを振り切りおこなうこと(→「果断(クヮダン)に実行する」「果敢(クヮカン)に立ち向かふ」)も表現される。つまり「タンクヮ(胆果)→たんか」は、決断力や勇気(勇(いさ)みの気(き))の湧く源たる胆(タン)から沸いた(あるいは、噴き出した)決断や勇気(勇(いさ)みの気(き))たるそれ。決断力や勇気・勇(いさ)みの気(き)の現出。「たんかをきる(たんかを切る)」はこれを「きる(切る)」と表現しているわけですが、これは勇気を切断したりするわけではなく、「きり(切り)」は存否を決するような動態情況で現れることも表現し→「しらをきる」、「たんかをきる」の「きる」もそれ。大道商人が威勢のよい発声と言語活動で人を寄せ何かを売ることが「たんかばい(たんか売)」と言われたりもする。

「痰火(タンクヮ)」という語があり、この語が「たんか(啖呵)」の語源であろうと言われる。しかし、この語は痰がからむ激しく苦しい咳(セキ)を(あるいは、激しい咳発作でからむ痰を)意味する→「心斗(ばかり)ははやせがは(早瀬川)せきくる痰火にいき(息)切って…」(「浄瑠璃」『賀古教信七墓廻』)。「痰(タン)」は気管から分泌、排出される粘液、とくに、塊状になった粘液、を言いますが、「痰(タン)」は『廣韻』に「胷(胸)上水病」と書かれるような字、病的状態を現す字、であり、排出される粘液、塊状になったその分泌物、をとくに表現する場合は「喀痰(カクタン)」と言う(「喀(カク)」は、咳払い、の意)。この「痰火(タンクヮ)」を「きる」こと(痰を吐き捨てること?。とすれば汚物を吐き散らすことであり、周囲を不快にさせ遠ざけることであるが)が「啖呵をきる」こととするのは、事実上、不自然に思われる。ちなみに、この「痰火(タンクヮ)」は「痰果(タンクヮ)」でしょう。病としての「痰(タン)」の成果や結果の意。「火(クヮ)」という表記は事態の急迫性を表現したもの→「火急(クヮキフ)」。

「色色たんくはを云(いゝ)うそ(嘘)とつゐしやう(追従)と結構な着物とに薬をまぜ合せて飲(のま)さねば立身出世は出来(でけ)ぬげに御座ります」(「浮世草子」『笑談医者気質』)。

「ゑらいたんか切りくさつたら頭(どたま)みしやいでこますぞヨ」(「滑稽本」『客者評判記』)。

 

◎「だんじり(山車)」

「ダンじいり(断じ入り)」。「ダンじる(断じる)」は切ること。「だんじいり(断じ入り)」は、切り入ること。これは祭事における山車(だし)の一種ですが、世界にこもった悪い気、邪気のようなものを身をもって切り裂き雲散霧消させる。

「車樂 ダンジリ 摂州大坂天満祭禮」(『書言字考節用集』)。