◎「たりまひ」(動詞)

「たりみはひ(垂り身這ひ)」。身が垂れたような状態になること。この語は宣命にあるものであり、一般に、語義未詳、とされる。宣命の当該原文は、

「汝(みまし)藤原朝臣(ふじはらのあそみ)乃仕奉状者(つかへまつるわざは)今乃未尓不在(いまのみにあらず)掛母畏支(かけまくもかしこき)天皇御世御世(すめらがみよみよ)仕奉而(つかへまつりて)今母又朕卿止為而(いまもまたまへつぎみとして)以明浄心而(あかききよきこころをもちて)朕乎助奉仕奉事乃(あれをたすけまつりつかへまつることの)重支労支事乎(いかしきいとほしきことを)所念坐御意坐尓依而(おもほしますみこころますによりて)多利麻比氐夜夜弥賜閇婆(たりまひてややみたまへば)忌忍事尓似事乎志奈母(いみしぬふことににることをしなも)常労弥重弥所念坐久 (つねいとほしみいかしみおもほしまさく)止宣(とのりたまふ)」(『続日本紀』宣命・慶雲四(707)年四月壬午(みづのえうま:十五日))。

そして続き、藤原不比等に食封(じきふ:後世で言えば領民・領地のようなもの)を賜うことが言われる。その後半部分がこの宣命の主眼。前半部分は、なぜそうするのかを述べている。「多利麻比(たりまひ)」は「たりみはひ(垂り身這ひ)」。身が垂れたような状態になること。藤原が仕えることの苦労を思うと頭が下がるような思いだ、ということなのですが、それをこうした言いかたをしている。つづく「夜夜弥(ややみ)」は、「や」は疑惑を表現する発声であり、自分がどうなっているのか、その処理や対応が困難な状態になること。「忌忍事尓似事乎志奈母(いみしぬふことににることをしなも)」の「志奈母(しなも)」は「しなむも→しながら」だろう。つまり、たりまひややみ、忌(い)み偲(しの)ぶことに似た、まるで忌(い)み偲(しの)んでいるような、状態になりながらも、常にいとほしみ…、ということ。この部分、非常に特異な表現です。「たりまひ」も特異な表現。なぜこのような特異な表現になるのかというと、藤原が仕えることの苦労を思うと頭がさがるような思いだ、だから食封を与える、と言いたい。しかし、天皇が臣(おみ)に頭をさげたり恐縮したりするわけにはいかないのです。「忌忍事尓似(いみしぬふことにに)」た状態にはなっても、天皇が臣(おみ)を斎(い)むわけにはいかないのです。そんなことをしたら天皇が損するからとか、天皇が絶対君主だから、というわけではありません。天皇(すめろき)は天孫の降臨であり、それは神を卑しめ辱(はづかし)める行為なのです。それは世に禍(わざはひ)をもたらす。藤原に現世の利益たる食封を与えるために世に禍(わざはひ)をもたらすわけにはいかないのです。

 

◎「たる(樽)」

「たはらフウ(俵風)」。俵(たはら)のようなもの、の意。そのような印象の容器。酒その他を入れる。

「樽 タル」(『運歩色葉集』(1600年代中頃))。