古代の天皇名にある「たらし」です。古代の天皇名にある「たらし」は神功皇后以前のA群と舒明天皇以後のB群に分けられる。その「たらし」がついている部分のみを記せば(数字は何代目の天皇かを表す)。 A群「(6)やまとたらし」「(12)おほたらし」「(13)わかたらし」「(14)たらしなかつひこ」「(神功皇后)おきながたらし」。 B群「(34)おきながたらし」「(35)ひたらし」「(37)ひたらし」「(43)よたらし」。 この両群を見ると、「たらし」という言葉の用いられ方が異なっていることが分かる。B群では「ひ(日)」「よ(世)」という名詞に「たらし」がついているのに対し、A群では「おほ(大)」「わか(若)」という形容詞の語幹に「たらし」がついている。すなわち、A群の「たらし」とB群の「たらし」は別の言葉です。B群のそれは「足らし」。「足り」の尊敬表現であり、使役の語感も働いているでしょう。十分に満ちていらっしゃり、十分に満たし、の意。A群のそれは「とあらし(~と有らし)」。「あらし(有らし)」は有りの尊敬表現であり、使役の語感も働いているでしょう。~という状態でいらっしゃる、~という状態になさった、の意。(6)の「やまとたらし」の場合も「足らし」(大和を満たし)という意味ではなく、「大和らしくなさった」の意。(14)は「たらし」の前に何もありませんが、これは感嘆を表現する「あは」が消えたのかも知れない。すなわち「あは…と有らし 名克つ日子」。時代を超えてこうした両群が現れることから、中国の書を根拠に「タラシヒコは七世紀前半の時代に用いられた天皇の称号」(『日本書紀 上 日本古典文学大系』(岩波書店・昭和42年):その補注4 - 一、7 - 一)とし、七世紀(600年代)前半とはすなわちB群の時代であり、A群の天皇名はそれに続く時代よりも、後世の、七世紀の天皇の名に親近的であると言い、しきりに、A群やそれ以前の天皇は後世の創作であることを印象づける努力をしている人がいるのですが、後世の人が古い時代の天皇名の「たらし」を見、聞き、それを「足らし」だと思い込んで天皇名に採用する、という事態は起こりますが、天皇名に「足らし」を用いている人たちが古い時代の天皇名を創作し「足らし」として命名しながらその意味が「~と有らし」になってしまった、という事態はけして起こらない。形容詞語幹は情況表現であり、動態目標にならない。B群の時代の人がA群の天皇の名を作るということはありえない。つまり、七世紀前半頃、さらには、『日本書紀』の天皇名の「たらし」の漢字表記がすべて「足」とあるように、A群の天皇名にある「たらし」が「足」と漢字表記されそれが正当な表記と認定され後世に残された頃、それが六世紀なのか五世紀なのか詳しく分かりませんが、その頃、A群の「たらし」の意味はもはや分からなくなっていたのです。『古事記』の「たらし」の漢字表記はすべて「帯」になっており(「(6)やまとたらし」「(12)おほたらし」「(13)わかたらし」「(14)たらしなかつひこ」「(神功皇后)おきながたらし」:つまりA群)、「(情況を)帯(お)びる」というこの表記の方がA群の原意に近い(『日本書紀』の漢字表記は、A群B群ともにすべて「足」になっている。『古事記』の天皇名表記は推古天皇(33)まで)。両群に共通する「おきながたらし」(A群「神功皇后」とB群「(34)」)はB群の者がA群のそれを、神功皇后の「おき」は「息(いき)」と思い、生命の長さを感じさせるのでそのまま採用したのでしょう(母音変化により「おき(息)」が「息(いき)」を意味するという表現もある→「鳰鳥(にほどり)の息長川(おきながかは:於吉奈我河波)は…」(万4458))。息を意味して命名すれば息になるわけですが、神功皇后の「おき」は「沖」でしょう。その「おきながたらし」は、世界を広げた、の意。ただし、漢字表記は『古事記』でも「息」と書き、『日本書紀』では「氣」と書いている。また、人名に「息長(おきなが)」は他にもあり、これは近江の地名に由来すると言われる。