「あてはふより(当て這ふ寄り)」。語頭の「あ」は退化し、「たふより」のような音を経つつ「たより」になった。「あて(当て)」(その項)は、期待、や、思惑、見込み、といった意味のそれ(→「それを買う費用は親をあてにしている」)。「より(寄り)」は経験経過を無条件受容した情況になること。「あてはふより(「当て這ふ寄り)→たより」は、期待、や、思惑、見込みが感じられる受容する情況になるなにか、そうなること。簡単に言えば、当てが感じられ寄るもの・こと、ということ。「あて」を思うこと、期待するなにごとか、見込みを得ようとするなにごとかはさまざまですが、それは人には誰にでもある生活一般や生きることであることもある。生活することにかんしなにごとかやなにものかを当てにし、寄り、その「なにごとかやなにものか」を、「なにごとかやなにものか」に、期待し、そのなにものかやなにごとかにより生活しようと思うわけです。そのとき人はその「なにごとかやなにものか」を「たよりにして」おり、それは「たより(頼り)」になっている。なにごとかを成し遂げようと思っている場合、それをなし得る「あて」を、感じさせる人が「たより」になりもし、それを伝えることが「たより」になりもし、相手は「たより」を受ける。そして、その「成し遂げようと思っているなにごとか」は社会的な生活関係一般であることもある(「成し遂げようと思っているなにごとか」たる社会的な生活関係一般、とは、たとえば、いま故郷はどんな様子なのか、知りたい、といったようなこと。それを成し遂げるあての這ふなにかに寄れば、そのものやことは「便(たよ)り」)。

この語は名詞がまずあり、それが動詞化もしたものでしょう。

「(任那の四県にかんしては)父(かぞ)の天皇(すめらみこと:応神天皇)、便(たより)宜(よろ)しきことを圖計(はか)りて、勅(みことの)り賜(たま)ふこと既(すで)に畢(をは)りぬ」(『日本書紀』:この場合の「たより」は国の将来の見通し・見込み)。

「麻呂(人名)箭鋭鋒撰 便(たより)の處(ところ)に居り 卽(やがて)擡(をが)み訴(うるた)へて云(い)ひしく…」(『出雲風土記』:「箭鋭鋒撰」は、箭(や)、鋭(するど)き鋒(さき)を撰(えら)び、か。この「便(たより)の處(ところ)」は、(娘を殺した)王爾(わに:鮫)に逢いそうな處(ところ))。

「花のかを風のたよりにたぐへてそ鶯さそふしるべにはやる」(『古今和歌集』:風が鶯をもたらす「あて」となりこれに花の香(か)を添える)。

「むかしの、懸想(けさう)のをかしきいどみには、あだ人(ひと)といふ五文字(いつもじ)を、 やすめどころ(和歌の第三句)にうち置きて、(上の句と下の句の)言の葉の続きたよりある心地すべかめり」」(『源氏物語』:「あだひと(徒人:不実、不誠実なひと)」に関する五文字が置かれ歌全体が整うということでしょう。「いどみ(挑み)」の原意は、出て響きを起こすこと。ここでは恋の思いを現すことをそう言っている)。

「かさね着る藤のころもをたよりにて心の色を染めよとそ思ふ」(『山家集』:藤の衣が心の色を染めるあてになる。「藤衣(ふぢごろも)」は喪服を意味する)。

「今昔、……と云ふ者有けり。家は上(上京の辺り)になむ住ける。若かりける時より、受領に付て国々に行くを役として有ければ、便(たより)漸(やくや)く出来て、万(よろ)づ叶(かなひ)て、家も豊に従者も多く、知る所なども儲てぞ有ける(自分の領地も持った)」(『今昔物語』:この「たより」は生活の「あて」。「受領」は所領を現地で管理する者ですが、それについているだけでもいろいろと収入は多かったらしい)。

「女どもの知るたよりにて、仰せ言を伝へ始めはべりしに…」(『源氏物語』:女房連中の知り合いのつてで、お願いごとを伝え始めたのでしたが…。女どもの知る人が仰せ言を伝えるあてになる)。

「神垣の辺りに咲くもたよりあれや木綿(ゆふ)かけたりと見ゆる卯の花」(『山家集』:神垣の辺りに咲くことが、遠い過去が未来になにごとかを伝えようとするあてになる)。

「この二月になむ、初瀬詣でのたよりに対面してはべりし」(『源氏物語』:この二月に、初瀬に参詣する機会に、あるいは、その折に、対面した(会った)。ものごとAがものごとBをおこなう(それが現実化する)あてになる場合、ものごとAは「たより」になる。たとえばものごとAは仕事で東京へ行くこと。ものごとBは東京でしか売っていないものを買い、手に入れること。その場合、仕事で東京へ行くことはそれを手に入れる「たより」になる。上記の例では、初瀬詣でが、その人に会う、という出来事が起こる「たより」になった)。

「…「貫之がこの世ながらの別れをだに心細き筋にひきかけけむも(※)」など、げに古言(昔の歌)ぞ、人の心をのぶるたよりなりけるを思ひ出でたまふ」(『源氏物語』:「古言」が「人の心をのぶる」あてになる。(※)「糸に縒(よ)るものならなくに別れ路(ぢ)は心細くも思ほゆるかな」(『古今和歌集』紀貫之)。

「簀子(すのこ)透垣(すいがい)のたよりをかしく、うちある(さりげなく置かれている)調度も昔覚えて…」(『徒然草』:簀子(すのこ)や透垣(すいがい)がなんらかの世界を知らせる(それを知るあてになる)ものやあり方になっている)。

「ふく風の たよりはありと きくものを 雲路(くもち)なれはや ふみみさ(ざ)るらむ」(『李花集』:この歌は「おと(音)せざりける人に(音信のない人に)遣はしける」という前書きがある。「踏(ふ)み」と「文(ふみ)」がかかり、「文(ふみ)」と「たより(便り)」がかかっている)。

・以下は動詞。

「はれのこるくものひとむらたよりきて又ふりいづる夕時雨かな」(『続門葉和歌集』:その時雨は自分の上の雲の一群に自己実現のあて・期待を感じさせるものだったらしい)。

「亡者(マウジヤ)人(ヒト)ニ便(タヨリ)テ吊(トムラヒ)ヲ頼(タノム)事」(「仮名草子」『因果物語』)。