◎「たゆし(懈し)」(形ク)
「たゆるうし(た緩憂し)」。「る」の脱落。「た」は「たとおし(た遠し)」などのそれ→「た」の項(2023年9月5日)。「ゆる」は構成力の弛緩情況にあることを表現する。「たゆるうし(た緩憂し)→たゆし」は、弛緩し不活性化し虚無的な疎ましさが感じられること。「やる気」たる活性化が湧かなくなっている状態です。その原因はさまざまであり、過労もあれば、やれねばならないことのばかばかしさであることもある。この語の語幹による「たゆげ(弛げ)」「たゆみ(弛み)」という動詞もある。
「京師(みやこ)べに君は去にしを孰(た:誰)か解くか我が紐の緒の結ふ手たゆきも(懈毛)」(万3183:三句「孰解可」は一般に、誰(たれ)解(と)けか、や、誰(た)が解(と)けか、と読まれている。その場合、「解(と)け」は「解(と)き」の已然形ということであろうけれど、誰が解こうと、という意味になるでしょう。「誰(た)か解く」は、解くのは誰なのか(あなたしかいない)、であり、続く「か」は詠嘆)。
「『………』と思ふにも、わがたゆく世づかぬ心のみ悔しく、御胸痛くおぼえたまふ。」(『源氏物語』:この「たゆく」は怠慢ということ。「世づかぬ」は世の現実をよくしらない)。
「例の、さいふとも(さ言ふとも)日たけなむと、たゆき心どもはたゆたいて…」(『紫式部日記』:行幸は辰(たつ)の刻(とき)とは言うが(この少し前でそう言われている)、どうせ遅れるに決まっている、とみんな準備をしない)。
◎「たゆみ(弛み)」(動詞)
「たゆし(懈し)」の語幹の動詞化。弛緩し不活性化した疎ましい状態になること。
「たゆまるるもの。精進の日のおこなひ。とほきいそぎ。寺にひさしくこもりたる」(『枕草子』)。
「今はかうと心安く覚(おぼえ)て迹(あと)の浪路(なみぢ)を顧(かへりみ)れば、また一里許(ばか)りさがりて、追手の舟百余艘(よさう)、御坐船を目に懸て、鳥の飛が如くに追懸けたり。船頭これを見て帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡らんと声を帆に挙(あげ)て推(おし)けれども、時節(をりふし)風弛(たゆみ)、塩(しほ)向(むかひ)て御舟更に不進(すすまず)。水手・梶取いかがせんと、あはて騒ぎける間、主上(後醍醐天皇)船底より御出あつて、膚(はだ)の御護(おんまぶり)より、仏舎利を一粒取出させ給ひて…」(『太平記』)。
「(此児の)足たゆめば、此児を肩に乗せ背に負て…」(『太平記』:足が疲れたわけです)。
「うまずたゆまず(倦まず弛まず)」。
◎「たゆめ(弛め)」(動詞)
「たゆみ(弛み)」の他動表現。弛む状態にすること。
「いとつれなく(なにごともなかったかのように)なにとも思ひたらぬさまにてたゆめ過ぐすもまたをかし」(『枕草子』:なにも気にせず緊張などないかのように過ごす、ということ)。