「たみ(発生み)」の客観的対象を主体とした自動表現。「たみ(発生み)」はその項参照。「た」は発生を表現し、「たち(立ち)」が「経(た)ち」(時が経ち、月日が経ち)にもなるように、経験経過の発生も表現する。経験経過の発生とは、経験の現実化であり、現実たる現(あらは)れです。なにごとかが現実として現れる。たとえば「AのためBする」と言った場合、Aが発生し・現実化する動態で動態Bがあり、Aが動態Bの発動因(原因)になったり(Aにより動態Bが促されたり)Aがその動態の結果影響を受けたりする。たとえば「妻や子のため働く」と言った場合、妻や子の現実たる現れ・妻や子の現実たる作用、が、働くことを促したり、それが働くことの結果の帰属主体となる動態として働く動態がある。その場合、Aへの、動態Bによる結果帰属たる影響はAにとって有益であるか不利益や有害であるかは表現自体は中性です。つまり、どちらも表現し得る。ただし、後世では、「AのためBする」と言った場合、それはAに利益であることがすべてという状態になり、不利益や害悪の場合は、歴史的にはそういう表現はありますが、後世ではわかりにくい表現になる。また、Aが原因となり、「AのためBになった」とBで事象が言われる場合、一般に不利益や害が起こっている。また、Aはものやことであるとは限らず、動態であることもある→「健康になるため運動する」。Bがものであることもある→「子供のための本」(子供の発生の本、とは、読むというその本とのかかわりにかんし子供が現れる本。すなわち、子供が読むことが考えられている本)。「ためになる」は何らかの発生がある。なにかの現実化がある。それは役に立ったり有益だったりする。「ためにならない」はその逆。「ためにする」はなにごとかの現実化を意図しおこなわれる。
漢字表記は、まれに他の字もありますが、一般的には「為」。「為(ヰ)」は、爲(な)すことですが、何ごとかを現実化するという意味で、発生を表現する「ため(発生め)」に意味は似ており、たとえば「為養育妻子 我労働」は、妻子を養育し我は働く→妻子をやしなうために私は働く、という意味になり、漢文訓読でそう読まれ、「為」は「ため」をあらわす字になった。
「みあとつくる いしのひびきは あめにいたり つちさへゆすれ ちちははがため(多米)に もろひとのために(御跡作る 石の響きは 天に至り 地(つち)さへ揺すれ 父母がために 諸人のために)」(『仏足石歌』:父母(名態)が石の響きが地(つち)を揺することの結果影響を受ける)。
「龍(たつ)の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため(丹米)」(万806:「行きて来む」という動態が馬を得ることの結果影響を受ける)。
「此(こ)の鳥(きぎし)下來(とびきた)りて、天稚彥(あめわかひこ)が爲(ため)に射(い)られて、其(そ)の矢(や)に中(あた)りて上(のぼ)りて報(かへりことまを)す、云々(しかしかいふ)」(『日本書紀』:「天稚彥(あめわかひこ)」が射られたことの動態勃起因になる)。
「汝ぢ、先生(ゼンシャウ:前世)に人と生れたりしに、人に捨られて、寒の為に死ぬべかりき」(『今昔物語』)。
「あいつがあんなことを言ったためにこんなことになっている」(「言った」という動態が現状の発生原因になっている)。
「假令(タトヒ)後(ノチ)ニ帝(ミカド)ト立(タチ)テ在人(アルヒト)イ立(タチ)ノ後(ノチ)ニ汝(イマシ)ノタメニ無禮(ヰヤナク)シテ不從(シタガハズ)ナメク在(アラ)ム人(ヒト)ヲバ帝(ミカド)ノ位(クラヰ)ニ置(オク)コトハ不得(エザレ)…」(『続日本紀』宣命:これは、動態Bの影響結果作用がAに有利有益に及ぶのではなく、不利有害に及ぶ場合の例。ここで「汝(イマシ)」とは「先帝(サキノミカド)」が言ったところの「朕子伊末之(アガコイマシ:我が子あなた)」。つまりこの宣命の主体である自分たる孝謙天皇であり、父親である「先帝(サキノミカド)」は聖武天皇。「汝(イマシ・孝謙天皇)ノタメニ無禮(ヰヤナク)シテ不從(シタガハズ)ナメク(無礼く)…」は、孝謙天皇が現実として現れる動態状態で禮(ゐや)がない。孝謙天皇に対し禮(ゐや)がない、ということ。これは天平宝字8(764)年の恵美押勝の叛でのもの)。
「今聞(いまき)く、近江朝庭(あふみのみかど)の臣等(やつこら)、朕(わ)が爲(ため)に害(そこな)はむことを謀(はか)る」(『日本書紀』:「近江朝庭(あふみのみかど)の臣等(やつこら)」は大友皇子を擁する。「朕(わ)」はそれと対立する大海人皇子(天武天皇)。これも、「AのためにBする」がAに不利益・有害な影響結果となる例。この「彼は我がために害す」は、私を救うため悪名を負う犠牲になって害したりするわけではなく、私に有害性を及ぼし害す。これは「壬申の乱」(672年)勃起時のこと)。