◎「たみ(廻み・訛み)」(動詞)
「たわみ(撓廻)」。「たわ(撓)」は圧力が加えられ変形しつつ自己を維持している状態を表現する。この語はその「たわ(撓)」の動詞化たる「たわみ(撓み)」ではない。「たわみ(撓廻)→たみ」は、動態がその「たわ(撓)」の印象で廻(めぐ)ること。進行した場合進行動態(その経過)がそうなる(「たわ(撓)」の印象で廻(めぐ)る)道の印象を表現したりもするが、(特に地方的な訛りで)言語が特別な圧力を受け変形し歪んだような印象であることも言う。言語にかんし言われた場合、別語の「だみ(訛み)」と、事実上、同意と言っていい状態になり、資料に濁点がない場合、そのどちらなのか区別がつかなくなる。この語は上二段活用。
「沖つ鳥(おきつどり)鴨(かも)とふ(と言ふ)船は也良(やら)の崎廻(た)みて(多未弖)漕ぎ来(く)と聞かれ(所聞礼)来(こ)ぬかも」(万3867:「沖つ鳥(おきつどり)」は遥か彼方の遠い憧れを夢見るような心情を表現する(その項)。「聞(き)かれ」は原文「所聞礼」を「所聞衣」や「所聞」に変え「聞(き)こえ」と読むことが一般になっている。「きこえ(聞こえ)」は外的刺激により内から効果が発生するような動態を表現するものであり、たとえば「天飛(あまと)ぶ鳥(とり)も使(つかひ)ぞ鶴(たづ)が音(ね)の聞(き)こえむ時(とき)は我(わ)が名(な)問(と)はさね」(『古事記』歌謡85) と言った場合、物的に聴覚刺激を作用しているのは鶴の鳴声であるが、人はそこに相手の思い、相手が伝えたいこと、が聞こえる。この万3876で歌主が聞くのは、遠く離れた人の思い、といったようなことではなく、その前の万3867で言っている、大声で船の帰還を、廻(た)みて(回り道をして遅くなりはしたが)船が帰って来たことを、伝える人の声であり、それは客観的な「聞かれ」(聞きの可能)のほうが読みは妥当でしょう。歌末の「~ぬかも」は否定・疑問・詠嘆が総合的に融合している表現ですが、これは否定への詠嘆にもなり、否定への疑問(そうならないのか?)が願望(そうなりたい)を表現しもする。この歌で表現されるのは願望(これは海へ出たまま帰らなくなった人たちを思っている歌))。
「岡の崎廻(た)みたる(多未足)道を人な通ひそありつつも君が来まさむ避(よ)き道にせむ」(万2363:「ありつつも」は、現状がこのままずっと、のような意)。
「其の迂(たみたる)辞、瑋(あやし)き説は多く翦弃(剪棄)に従かへり」(『大唐三蔵玄奘法師表啓』平安初期点:「瑋(あやし)き」は、希(まれ)、ということでしょう。翦弃(剪棄:センキ)に従ふ、とは、取り去る、ということ)。
「あつま(吾妻)にてやしなはれたる人のこ(子)はした(舌)たみてこそ物はいひけれ」(『拾遺和歌集』(1005年))。
「若うより、さる東(あづま)の方の、はるかなる世界に埋もれて年経ければにや、声などほとほとうちゆがみぬべく、ものうち言ふ、すこしたみたるやうにて…」(『源氏物語』)。
「手などきたなげなう書きて、唐の色紙、香ばしき香に入れしめつつ、をかしく書きたりと思ひたる言葉ぞ、いとたみたりける」(『源氏物語』)。
「迂 タミタリ 訛」(『色葉字類抄』(1100年代後半))。
「迂 ……タミタリ マガル ……ニゴル」(『類聚名義抄』(平安末期))。
◎「たまもよし(枕詞)」
地名「さぬき(讃岐)」に掛かる枕詞です。魂(たま)催(もよほ)し(魂に促され)→さに行(ゆ)き(さぁと行き:気持ちが進み→さぬき、ということ。讃岐(さぬき:後の香川県)は魂(たま)に促されるよいところ、ということ。
「たまもよし(玉藻吉) 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴(たふと)き…」(万220:「玉藻吉」という表記は海が意識されたものでしょう。かといって、玉藻刈る、はいたるところでおこなわれたではあろうけれど、讃岐が特に玉藻で知られるとも思われない。この語は枕詞と思われますが、用例は『万葉集』にこれ一つだけでしょう)。