「たまひ(給ひ・賜ひ)」の自動表現。「たまひ(給ひ・賜ひ)」は立てる、発生させる、現(あらは)す、のような意味ですが(→「たまひ(給ひ・賜ひ)」の項・1月10日)、それは何者かがそうしており、「たまひ」の事実上の動態は、「与へ」のような他動表現になる(「AをBにたまひ(AをBに発生させ)」は、AをBに与え、になる)。この、事実として現れた他動態に対する自動表現として現れているのが「たまへ(給へ・賜へ)」。意味は、受けた側としては「もらひ(貰ひ)」「いただき(戴き)」になる、立つ、発生する、現(あらは)れる、になる。ここでも、たとえば「酒たまへ」と言った場合、酒立ち、酒発生し、と言ってはいるのですが、酒が自然発生的に立つ・発生する・現(あらは)れることはなく、それは何者かがそうしている。すなわちその実態的動態は、立つ・発生する・現(あらは)れることをされる、すなわち、立たされる、発生させられる、現(あらは)される、という受身になる(他者が自分に何かをするという自動表現なのです)。「酒たまへ(多末倍)笑(ゑ)らき」(『続日本紀』宣命)は、酒立ち笑い、酒発生し笑い、と言っているのですが、それは、酒立たされ・発生させられ(何者かからいただき)笑った(酒を飲んで(食べて)笑った)、を意味する。それは自分が現したのではなく、現されたのだというこの表現は、自分の動態を間接化・婉曲化するような表現であり、その間接性・婉曲性が自分がそうされた原因主体、自分をそうした主体、への敬いや遠慮の表現になるという非常に珍しい表現になっている。「水をたまへな(多麻倍奈)妹(いも)が直手(ただて)よ」(万3439)は、水を発生させられようかな(もらおうかな、いただこうかな)のような表現であり、この表現で水を与えることを促している(『万葉集』の冒頭の歌で「家聞かな」(聞こうかな)で言うことを促しているような表現である(もっとも、この冒頭の歌は聞くこと(聞きなさいな)も促している))。「酒たまへ」といった表現は「酒たまへ→酒たむへ→酒たうべ→酒たべ(酒食べ)」と変化する。この「たまへ」を、そうした「たまへ」の情況がある、と客観化した自動表現が「たまはり(給はり・賜はり)」。他者が自分に何かをする(自分が他者に何かをされる)ことの自動表現は意味的に分かりにくく、表現に客観化が起こり「たまはり(給はり・賜はり)」が生じた。
「たまへ」が動態に接続する場合も、「見たまへ」「聞きたまへ」(これは他動表現「たまひ(給ひ・賜ひ)」の命令形による「見たまへ」「聞きたまへ」とは別の表現)などの場合、「見(み)」や「聞き」が外的要因なく自然発生すればそれは幻覚や幻聴であり、それらは、「見(み)」をさせられる、「聞き」をさせられる、自分でそうしたのではなく、させられている、という自動表現になる。これも自分の動態を間接化・婉曲化するような表現であり、これがそうさせた何者かへの敬いや遠慮の表現になる。「是の如きことを我聞きたまへき」(『金光明最勝王経』平安初期点:これは、客観的にはただ、聞いた、と言っているだけなのですが、それが何者かの権威的影響によりそうなり、その権威がそこには働いていることが表現される)。