「たまたすき」という語がある。「たま(玉)」は美称として付され、「たまたすき」は「たすき(襷)」の美称と言われる。たしかに、「たすき(襷)」の美称としての「たまたすき」という語はある。「けさころも(袈裟衣)きなから(着ながら)たまたすきしてかつら川にてとりもならはぬうを(魚)とらんとするに…」(『沙石集』「まうもく(盲目)の母をやしなふ事」)。その場合、「たま(玉)」は、単に象徴的な美称として添えられているのではなく、古代においては、本当に、宝玉をつらねた襷(たすき)があったのかもしれない。後世においては水晶をつらねた襷(たすき)といったものはありますが、古代においてもそれはあったのかもしれない。

ここで問題になるのは枕詞としての「たまたすき」です。この語は「かけ(掛け)」や地名「うねび(畝火)」にかかる。「かけ(掛け)」にかかるのはわかる。襷(たすき)は服の上から身にかけるから。問題は、なぜ「うねび」にかかるのかです。これにかんしては、襷(たすき)は項(うなじ:首の後部)にかけるからなどとも言われますが、襷(たすき)は項(うなじ)にはかけない。これは「得(う)る音(ね)び」ということでしょう。「る」はR音が退化している。「び」は「都び」「荒び」その他のそれ。意味は、ものやことを得(え)る音(ね)が聞こえてくるようだ(そうなるにちがいない)、ということ。「たすき(襷)」は、それをかけるのは、神事たる神への奉仕努力であれ、現世の肉体労働的労務であれ、なんらかの労務に尽くす際であり、「たすき(襷)」がそうした努力の象徴になる。その努力が、宝玉のようななにかをもたらす、そんな音(ね)が聞こえるようだ、そんな未来を約束する神の声が聞こえるようだ、という表現が「たまたすきうねび」。畝火(うねび)の山には橿原神宮がある。

「たまたすき(玉手次)懸(か)けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ」(万2236:この「たすき」も神に奉仕するような努力にあることの象徴になっている)。

「たまたすき(玉手次) 畝傍(うねび)の山の 橿原(をかしはら)の ひじり(日知)の御代ゆ…」(万29)。

「天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の路(みち)ゆ たまたすき(玉田次)畝傍(うねび)を見つつ あさもよし 紀路(きぢ)に入り立ち…」(543)。

「ことならは 思はすとやは いひはてぬ(言い果ててしまえばそんな思いなどないとはならないのか…) なそ世中(よのなか)の たまたすきなる」(『古今和歌集』:この「たまたすき」は枕詞ではない。「ことならは(ば)」は、おなじことなら、のような意。世の中がたまたすきとは、世の中は神事を行い神に奉仕するような努力をしているということ)。