「たまあしはか(玉足努果)」。「たまあし(玉足)」とは、玉(たま:球体)の行方(ゆくへ)。球体が転がっていくその行く先であり、その進行経路。「はか(努果)」は努力の成果。その結果。「たまあしはか(玉足努果)→たまさか」は、球体が転がっていくその先、その経路、それによるその結果。これが、誰にも正確な予測はできない結果、予想の起こらない結果たる事象を表現する。玉はどこへ転がっていってしまうかわからない、ということであり、そのようになにごとかが起こることが「たまさかに」あること。
「たまさか(玉坂)に我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む」(万2396)。
「…海界(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海若(わたつみ)の 神の女(をみな)に たまさかに(邂尓) いこぎ向ひ…」(万1740:中国語で「海若」が、海神、を意味するのは(それゆえに日本でこの字が「わたつみ」の漢字表記になる) 「若(ニャク・ジャク)」の、ごとし、~のようだ、という意味によるものだろう(→傍若無人(バウジャクブジン):傍(かたは)らに人無きがごとし)。中国語の「若」に、若(わか)い、の意味はない。それはこの字の日本で用いられている用い方。日本で、わかい、の意味でこの字が用いられるのはそれが「弱(ニャク・ジャク)」と同音であるかららしい→弱年(ジャクネン))。
「偶 …タマサカ タマタマ」「邂逅 タマサカ」(『類聚名義抄』)。
「山(比叡山)へのぼる人なりとても、こなたの道には、通ふ人もいとたまさかなり」(『源氏物語』)。
「しかれども、もし天ぢくにたまさかにもて渡りなば、ちやうじや(長者)のあたりにとぶらひもとめんに…」(『竹取物語』)。
「もしたまさかに出づべき日あらば、吿げよ。迎へはせむ」(『蜻蛉日記』)。