◎「たまかつま(枕詞)」
「たまあわかつま(玉泡克つ間)」。「たまあわ(玉泡)」は、水面の半球状のものではなく、シャボン玉のような、球状の泡。「かつ(克つ)」は何かが限界的に維持されている状態にあることを表現する→「かち(勝ち)」(2021年4月2日)「かて(克て)」の項。「たまあわかつま(玉泡克つ間)」は、その「たまあわ」が限界的に維持されている間(ま:時間)。すなわち、シャボン玉が維持されている間のような、美しく短い間。これが、短い時間を意味する「しまし(暫し)」や「しまら(暫)」(それらの項)の影響により「しま(島)」に掛かる。『万葉集』(2916)にあるそれは、それにより、「あふ(会ふ)」ことが短く美しい時間にあることが表現されているものでしょう。
「たまかつま(玉勝間)島熊山(しまくまやま:現・大阪市豊中市)の夕晩(ゆふぐれ)にひとりか君が山道(やまぢ)越ゆらむ 一云 暮霧(ゆふぎり)に長恋しつつ寐(い)ねかてぬかも]」(万3193)。
「たまかつま(玉勝間)逢はむと言ふは誰れなるか逢へる時さへ面隠しする」(万2916)。
◎「たまきはる(枕詞)」
「たまきはらふ(手纏払ふ)」。「たまき(手纏)」は、手に巻く装身具の意味もありますが、弓を射る際に左腕につける防具も意味する。ここでの「たまき」はその意味。その手纏(たまき)を払ふ、とは、弓を射た際に弦がそこに払うように当たることを意味する(腕に当たることに備えた防具なわけです)。これが、極まった瞬間性のようなものを表現する。これは枕詞ですが、弓の関係で「い(射)」「うち(打ち・内):矢を射(う)ち、ではなく、弓の弦(つる)が手纏(たまき)を打ち」、弓との対で「たち(太刀):さらには、断ち、の極まった瞬間性の」などにかかる。「い」の音(オン)の関係で「いくよ(幾世)」「いそ(磯)」にかかる。万2398にある「年切世までと定め頼みたる君によりてし言の繁けく」(万2398)の一句「年切」は「年」は「玉」の誤字であるとして「たまきはる」と読まれていますが、これは単純に「としきれる(年切れる)」でしょう。年が切れるとは、年が「きり」になるということであり、そこで終わるということであり、「年(とし)切(き)れる世(よ)まで」は、死ぬまで、ということ。つまり、「たまきはる」が「世(よ)」にかかっているわけではない。ただし、歴史的に、「たまきはる」という語は、極まった瞬間を表現する一般的な表現の状態になり、「たまきはる世」「たまきはる心」「たまきはる我が身」といった表現が現れるようになる。
「たまきはる(多麻岐波流) 内(うち)の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世(よ)の長人(ながひと) そらみつ 大和(やまと)の国(くに)に 雁(かり)子生(こむ)と聞(き)くや」(『古事記』歌謡72)。
「…うつせみの 世の人なれば たまきはる(多麻伎波流) 命(いのち)も知らず 海原の 畏き道を 島伝ひ い漕ぎ渡りて…」(万4408)。
「…古(いにしへ)ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる(多末伎波流) 幾代(いくよ)経にけむ…」(万4003)。
「たまきはる(霊寸春)我が山の上に立つ霞立つとも居とも君がまにまに」(万1912:この表現は、「たまきはる」が「我(われ)」や「山(やま)」にかかっているわけではなく、その「はる」が「春(はる)」にかかり、それが縁語となって「霞(かすみ)」にかかっているということでしょう。命が極まったような状態になっている私は霞(かすみ)がかかったような状態になっている(あなたしだいで私は生きもする死にもする。はっきりさせてくれ)ということ)。
・以下は「たまきはる世」、「たまきはる心」といった例。
「なかつきや おいせぬきくの したみつに たまきはるよは よそのしらつゆ」、「たまきはる うきよわすれて さくはなの ちらすはちよも(散らすは千代も) のへのもろひと」、「おもひいつる ゆきふるとしよ おのれのみ たまきはるよの うきにたへたる」(『拾遺愚草員外』)。
「たまきはる よのことわりも たとられす なほうらめしき すみよしのかみ」、「たまきはる わかみしくれと ふりゆけは いととつきひも をしきあきかな」(『拾遺愚草』(1216年))。
「たまきはる こころもしらす(知らず) わかれぬる ひとをまつへき みこそおいぬれ」(『新後拾遺和歌集』(1385年))。
「Tamaqiuaru(タマキワル). P(歌語).i. Inochi qiuamaru(イノチキワマル). Morrer ,ou estar a vida no cabot(死ぬ、または命がかかっている)」(『日葡辞書』(1603-4年):1600年ころは「たまきはる」はこうした意味になっているということ)。