「たまひ(給ひ)」の変化。「たまひ」が「たび」になるその原因は「たまひ」の語源にあり、これは「ためはひ」であり(→「たまひ(給ひ)」の項)、この「ためはひ」が母音不活性に、口唇の運動不活性に発音された場合、「たんぼひ」「たんぶひ」のような音(オン)になり、これが「たんび→たび」のような音(オン)になる。意味の基本は「たまひ」に同じですが、「たまひ」のような、動態表現の丁寧さには欠ける。ということは、「たまふ」相手への尊重感がいくぶん欠けたり、逆に言えば、「たまふ」主体の権威性が増したりする(それが言語主体たる自分であり自分がそうしていること、「たび」をしていること、を表現すれば、偉そうになる。自分がそうされていることを表現すれば、「たび」という動態の主体は自分にそうしているその人であり、その人への謙譲になる)。音変化は「たまへ(給へ)」も「たべ」になる。
活用変化も「たまひ」と同じなのですが、「まつりたばず」などと言われるとわかりにくくなる。これは「まつりたまはず(祭り給はず)」。
「受(う)け賜(たまはり)たばず:(承(うけたまは)りたまはず)」、「たばむずる・たばうずる:たまはむずる」、「物もえたばで:物もえたまはで)」、「たびて:たまひて」、「たびたり:たまひたり」、「告げたびしかば:告げたまひしかば」、「童(わらはべ)にたぶ:童にたまふ」、「祀りたぶこと:祀りたまふこと」、「思ひたぶべきこと:思ひたまふべきこと」、「申したぷにより:申したまふにより」、「娘を我にたべ:我にたまへ」(懇願のような命令形)、「門を開かせたべかし:開かせたまへかし」。
「我が聞きし 耳によく似る 葦若未乃 足傷吾勢 つとめたぶべし(勤多扶倍思)」(万128:三句「葦若未乃」は一般に、「未」は「末」の誤字であるとして、「あしのうれの(葦の末の)」と読まれている。これは、「あしわかみの」と書き、「あさかみの」と読むのでしょう。そして言っていることは、あさはかみの(浅はか見の)。浅はかなものごとの見方が、の意。続く四句「足傷吾勢」は一般に、足痛む吾が背、や、足引く吾が背、と読まれている。これは、「あしきずわがせ」と読むのでしょう。そして言っていることは、悪(あ)しきにす吾(わ)が背(せ)。つまり三・四句をまとめれば、「浅(あさ)はか見(み)の悪(あ)しきにす吾が背」。意味は、浅はかなものごとの見方がものごとを悪しきことにしてしまうあなた。ようするに、あなたはものごとの見方が浅はかよ、ということ。そして、「つとめたぶべし」(よくなるように努力してね)。この歌は、石川女郎が貧しい老婆に扮して大伴田主という美男子を訪れた際、田主が無造作に扱うようにこれを帰したことに関しての石川郎女から大伴田主への歌のひとつ)。
「『(踊りが下手だったので)そのとりたりし質(しち)の瘤(こぶ)返したべ(返してやれ)』といひければ、末つかたより鬼いできて『質の瘤かへしたぶぞ(返してやるぞ)』とて今片方の顔に投げ付けたりければ左右へに瘤付きたる翁にこそなりたりけれ。物ねたみはせまじきことなりとか」(『宇治拾遺物語』)。