◎「たび(度)」
「たみゐ(発生み居)」。「たみ(発生み)」はあったと思われる動詞→「たみ(発生み)」の項(下記)。「た」は発生を表現し、「たび(度)」ではその語幹の「た」が事象の発生・経過を表現する。「たみゐ(発生み居)→たび」すなわち、「~たび」や「~のたび」は、「~」動態や「~の」動態に居ること、その動態経過経験にあることを表現する。事象が経過するその機会。たとえば、「彼が来るたびに…」は、「彼が来る」という事象の発生・経過を経験する動態にあることが表現される。経過があることを表現する「経(た)ち」(「時間が経(た)ち」「月日が経(た)ち」)で考え、「彼が来る、経(た)ち居(ゐ)に…」と考えるとわかりやすいか。
「たびたび」は、事象の発生・経過を経験がくりかえされること。
「持て来たりしたびは、いかならむと胸つぶれて…」(『枕草子』:持ってきたそのときは…)。
「朱雀院の行幸は、神無月の十日あまりなり。世の常ならず、おもしろかるべきたびのことなりければ、御方御方、物見たまはぬことを口惜(くちを)しがりたまふ」(『源氏物語』)。
「白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度(やたび:夜多妣)袖振る」(万4379:八の事象の発生にあり。ただしこの数字の八は象徴的な表現であり、幾度も、ということ。「やたび」ではなく「いやたび(彌度)」の可能性もある)。
「いにしへゆ なかりし瑞(しるし) たび(多婢)まねく 申(ま)したまひぬ」(万4254:「まねし」はことが密集し多いこと。「申(ま)したまひぬ」は、神的な威光が顕(あらは)れた、のような意。これにかんしては「まをし(申し)」の項)。
「このたび、わが社と〇〇株式会社はその経営を統合することとなり…」。
◎「たみ(発生み)」(動詞)
その語が独立しては現れていないが、発生感を表現する「た」による「たみ(発生み)」という動詞があると思われる。ここでは「発生み」と書く。「た」は発生を表現し(→「た」の項・9月5日)、「たみ(発生み)」は発生意思努力を表現する。「たち(立ち)」の「た」も同じ「た」であり発生を表現し、事象の発生は必然的に経過をともないそれは「時がたち」「月日がたち」などの「経(た)ち」にもなる。「たみ(発生み)」はその活用語尾M音と思っていい。「たち」はその活用語尾T音による(完了の助動詞「つ」に現れるような)意思確認的そして客観的な認了であり、「たみ(発生み)」はその活用語尾M音による(意思・推量の助動詞「む」に現れるような)主体的意思努力による容認というようなこと。つまり、「た」が「~つ」と客観的に完了が表現されるか、「~む」と主観的に容認されるかの違いということ。「たみ(発生み)」にかんしては「たまひ(給ひ・賜ひ)」の項参照。その他「たみ(民)」「たび(度)」「たび(旅)」「たみ(民)」「ため(為)」「たむけ(手向け)」など。
◎「たび(旅)」
「ちたみゐ(路発生み居)」。語頭の「ち」は無音化した。「たみ(発生み)」はあったと思われる動詞→「たみ(発生み)」の項。「たみゐ(発生み居)」はある動態経験、その動態の経過経験にあることですが→「たび(度)」の項参照、「ち(路)」はその、なにかに目標感のある進行、その進行空間域を表現し→「ち(路)」の項、「ちたみゐ(路発生み居)→たび」は、なにかに目標感のある進行空間域の経過経験にあることを意味する。どこかへの進行の過程にある。その経過する進行経験は「立った」こと、発生感のあることであり、特別な「たち」のない日常生活的な空間移動は「たび」にならない。しかし、そうでなければ、どこかで夜を、それも幾夜も、過ごすような長期、遠距離の移動ではなかったとしても、それは「たび」になる。また、「たび」にあっても、また、その到着した先で恒常的生活がはじまればその「たび」は終わる。
「草枕(くさまくら)旅(たび:多婢)を苦しみ恋ひ居れば可也(かや)の山辺にさを鹿鳴くも」(万3674:「可也(かや)の山」は現・福岡県糸島市。「草枕(くさまくら)」は「たび(旅)」の非常によくある枕詞。ほとんど慣用的表現と言ってもいい)。
「……かの浦(須磨)に着きたまひぬ。かりそめの道にても(本格的な旅というようなものではなくても)、かかる旅をならひたまはぬ心地に…」(『源氏物語』)。
「明後日ばかり、車 たてまつらむ。その旅の所尋ねおきたまへ」(『源氏物語』:これは、「たび」とは言っても、仮住まい、というような状態にあることをそう言っており、そこは浮舟のいるべきところではない、浮舟の安住・定住の地はそこではない、という文学的表現である可能性もある)。