「とわにほし(永遠に欲し)」。「とわ(永遠)」は「とは」「とわ」「とば」になるような微妙な音(オン)。意味は果ての知れない遠い彼方の時間(→「とば(永遠)」の項)。「とわにほし(永遠に欲し)→たのし」は、終わることなくと思いがひかれている、ということ。ずっとこうありたい、という思いが表現される。この表現は、その心地よさも表現しますが、「ほし(欲し)」という語の影響により、欲望の充足、物質的経済的欲望の充足、それによる満ち足りた開放的快感を表現する傾向が強い。この語を語幹とする「たのしみ(楽しみ)」という動詞もある。

「…うちなびく 春見ましゆは 夏草の 茂(しげ)くはあれど 今日の楽(たの)しさ」(万1753:その人も望み、筑波の山に人(自分よりも偉く、権威もあった人だろう)を案内し、天候にも恵まれ、自分の住む広々とした豊かな世界を見せることができた思いで歌っている)。

「正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を折(を)りつつ楽しきを経(へ)め」(万815:この歌の四句五句は、一般に、原文(西本願寺本)「乎利都都」の「利」を「岐」に書き変えつつ、「梅を招(を)きつつ楽しき終(を)へめ」と読まれている。これは「梅を折(を)りつつ楽しきを経(へ)め」でしょう。梅を折り、に関しては、少し後の歌に(それらはすべて同じ宴でつくられた歌)、折りかざし、や、手折りかざして、といった表現があり、梅の小枝を髪に飾ること)。

「倡 ……楽也俳也優也 太乃之 又 佐加由 又 由太介之」(『新撰字鏡』:「倡(シャウ)」は『説文』に「樂也」とある字)。

「時羅刹子白其母曰 母我爲飢渇 甚逼切身心 此(こ)の人(ひと)を食することを聽(ゆる)したまへ 苦(たしな)きを息(しの)び身心樂(タノ)しく願(ならむといふ)」(『地蔵十輪経』:元慶七(883)年点)。

「姉の妓王をば入道相国(平清盛の出家後の呼称)寵愛せられけり。………母刀自にもよき屋造つて取らせ毎月百石百貫を送られければ家内富貴して楽しい事斜めならず」(『平家物語』)。

「昔、東大寺に上座法師のいみじくたのしき有けり。露ばかりも人に物あたふることをせず、慳貪に罪ふかくみえければ…」(『宇治拾遺物語』:富豊かな生活をしていた)。