「たとへむは(譬へむは):何かに譬(たと)えるならば」 と 「たとひえむは(たとひ得むは):「たとひ」を言うならば」 があり、「たとひ得むは」の「たとひ」には記憶再起(事例)の場合(事例を言うならば)と空想の場合(仮想を言うならば)がある。「たとひ(仮令)」(11月27日)、「たとへ(譬へ)」(11月28日)はその項。
●「たとへむは(譬へむは):何かに譬(たと)えるならば」
「(僧正遍昭は)たとへばゑ(絵)にかけるをうな(女)をみていたづらに心をうごかすがごとし」(『古今和歌集』序:たとえるなら~のごとし)。
●「たとひえむは(たとひ得むは):「たとひ」を言うならば」
〇「たとひ」が記憶再起(事例)の場合(事例を言うならば)
「(木曽)義仲も、東山北陸両道を従へて、今一日も先に平家を滅ぼして、たとへば日本国に二人の将軍と云はればや」(『平家物語』:これは、滅ぼして譬(たと)えるなら二人の将軍、では文意が不自然になる。滅ぼして(脳に)立ち生ふだろうことは日本国に二人の将軍…と言われたい(源頼朝に並びたいということ))。
「入道相国(平清盛の出家後の呼び名)、一天四海を掌の内に握り給ひし上は世の謗(そし)りをも憚らず人の嘲りをも返り見ず不思議の事をのみし給へり。たとへばその比(ころ)都に聞えたる白拍子の上手妓王妓女とておととい(姉妹・兄弟:弟(おと)と小老(をおい):年下と年上、ということか)あり。刀自といふ白拍子の娘なり。然るに姉の妓王をば入道相国寵愛せられけり。これによりて妹の妓女をも世の人もてなす事斜めならず。母刀自にもよき屋造つて取らせ毎月百石百貫を送られければ家内富貴して楽しい事斜めならず」(『平家物語』:「たとへば」に続き、「不思議の事」として思い浮かんだことを言う)。
「大唐の一行阿闍梨は、無実の讒訴に依つて火羅国へ流され給ひけり。たとへば一行は玄宗皇帝の御加持(かぢ)の僧にて御座(おは)しが、而(しか)も天下第一の相人(さうじん)に御座(おは)しける」(『源平盛衰記』)。
〇「たとひ」が空想の場合(仮想を言うならば)
「たとへば骨を砕かれて、身はしやれ貝の蜆(しじみ)川、底の水屑(みくづ)とならばなれ」(「浄瑠璃」『曽根崎心中』)。
・「たとひ」が空想の場合は仮定や仮想であるが、
「たとへば…(文)…ば(は)」と(文)で意思的に仮想が言われ、そこで言われることにおける(文)で言われることの重要性が表現され(この場合は、もし~なら、のような意になる)、
「ただ恃(たの)め たとへば人の 偽(いつは)りを 重(かさ)ねてこそは またも恨(うら)みめ」(『新古今和歌集』)。
「たとへば…(文)…とも」、「たとへば…(文)…ども」、「たとへば…(文)…にせよ(にしろ・にして)」などと、(文)で思念的に否定的仮想が言われそこで言われる動態や事象の強さ、その否定され難さ、が表現される(この場合は、もし、仮に、~であっても、のような意になる)。
「いま行(ゆく)すゑは 稲妻(いなづま)の 光(ひかり)の間(ま)にも 定(さだ)めなし たとへば独(ひと)り ながらへて 過(す)ぎにしばかり 過(す)ぐすとも 夢(ゆめ)に夢(ゆめ)みる 心ちして 隙(ひま)行(ゆ)く駒(こま)に 異(こと)ならじ」(『千載和歌集』)。