◎「たどたどし」(形シク)

「たにとたにとし(誰にと誰にとし)」。「た(誰)」は、「あれはたそ(あれは誰そ):あれは誰(だれ)ぞ」(『源氏物語』)などの、具体的同定不明な人を表現するそれ→「た(誰)」の項(9月6日)。「たにと(誰にと)」は、誰(だれ)かにと、ということですが、ある主体が判断や行為をおこなっている場合、その主体では判断や行為としてなり立つことが不安であり、誰(だれ)か他の人にやってもらった方が…、や、誰か他の人の補助でもあれば…、と思われるような場合であることを表現しているのが「たにと(誰にと)→たど」。いかにもその「たど」を感じさせる情況であることを表現するのが「たどたどし」。人の判断やことが「たどたどし」であることが多いですが、いま現れている個別的具体的なものごとがそのものごと一般として自立自存しない場合もそう言われることがある→「たどたどしき春霞(はるがすみ)」。この語は音(オン)も意味も「たづたづし」(11月18日)に似ていますが、というよりも、「たづたづし」の母音変化、つまり同語と、言われることが一般ですが、別語。

「『いざ、しるべしたまへ。まろは、いとたどたどし』」(『源氏物語』:案内してくれ、この寝殿のことは不案内でよくわからない)。

「うらやましきもの  経など習ひて、いみじくたどたどしくて、忘れがちにて、かへすがへす同じ所を(私は)読むに(読むが)…」(『枕草子』)。

「「……これが末(漢詩のそれに続く部分)知り顔に、たどたどしき真名(まんな)に書きたらむも見苦し」 など思ひまはす程もなく…」(『枕草子』)。

「祭の頃は、いみじうをかしき。木々の木の葉まだいと繁(しげ)うはなうて、若やかに青みたるに、霞も霧も隔てぬ空の景色の、何となくそぞろにをかしきに、少し曇りたる夕つかた夜など、忍びたる郭公(ほととぎす)の遠う空耳(そらみみ)かと覚ゆるまでたどたどしきを聞きつけたらむ、何心地かはせむ」(『枕草子』(能因本))。

 

◎「たとしへなし」(形ク)

「とはとすいひえなし(とはとす言ひ得無し)」。「とはとす」は、「「Aとは(Bである)」とす」ということです。「とはとすいひえなし(とはとす言ひ得無し)」とは、「Aとは(Bである)」とする言い得るなにかがない。Aを何かに例えようがなかったり、既存のA・Bに対し、AはBだ、BはAだ、とする言いようがなかったりする(つまり、A・Bに共通性が何もなく、双方は共通しない)。

「たとしへなきもの 夏と冬と。夜と晝と。雨降る日と照る日と。人の笑ふと腹立つと。老いたるとわかきと。しろきとくろきと。思ふ人とにくむ人と。おなじ人ながらも、心ざしあるをりと變(変)りたるをりは、まことにこと人とぞおぼゆる。火と水と…」(『枕草子』)。

「(女の)つれなう心強きは(つれなく心強き女は)、たとしへなう情けおくるるまめやかさなどあまり(たとしへなく情けがおくれ実直さが過剰で)、もののほど知らぬやうにさてしも過ぐしはてず(ものごとの限度を知らぬ人がそうであるように突き進み果ててしまうわけでもなく)、名残なくくづほれてなほなほしき方に定まりなどするもあれば(夢を追うような恋は名残りなく崩れありきたりな男におさまってしまう人もあり)、のたまひさしつる((源氏は)声をかけることもなくなってしまうこと)も多かりける」(『源氏物語』:これは「末摘花」の初めにある部分ですが、一般にはこのように読まれていない。しかし、こう読まないと全体の文意が混乱する。一般には「など」と「あまり」の間に読点が入り、「あまり」は続く文にはいる。ちなみに、原文に読点や句点はない)。

「(空蝉は)たとしへなく(袖で)口おほひて、(顔を)さやかにも見せねど…」(『源氏物語』:これは、こんなことをする人はほかになく、のような意味になる)。