◎「たてまつり(奉り)」(動詞)

「たて(立て)」は「たち(立ち)」の他動表現であり、発生感を生じさせることを表現する。「まつり(祭り)」は間接的な、感応的同動にあることを表現する→「まつり(祭り)」の項参照。そしてその「まつり」の感応は、いつとは知れない昔からの神との感応です。

1.自分が物をたてまつる場合。たとえば「御調(みつき)をたてまつる」(御調(みつき)を発生させ、これと、神と感応するような情況になる)は、神との感応のために御調(みつき)を差し出しているような表現になり、そうした差し出した相手への敬いや尊重の表現になる。

2.自分が動態をたてまつる場合。たとえば「筵(むしろ)を敷きたてまつる」は、「敷く」という動態が神との感応行為であるかのような表現になり、誰かやなにごとかのために敷いているその誰かやなにごとかへの敬いや尊重が表現される。一般的な言いかたをすれば、ある主体の、「~」という動態が「~たてまつり」と表現されている場合、その動態の対象とのその動態によるかかわりが神との感応のような表現になり、その対象への謙譲になる→「経を聞きたてまつる」、「帝(みかど)を恋ひたてまつる」。

3.自分が他の人に動態をたてまつる場合(動態は直接表現されない)。たとえば「Aを舟にたてまつる(乗せる)」は、Aに関し何らかの動態を働かせることが神との感応行為であるかのような表現になり、しかもAに対する動態を直接表現せず表現は間接的なものとなり、Aに対する敬いや尊重の表現になる。

4.他の人の動態をたてまつる場合(動態は直接表現されない)。たとえば「(Aが)たてまつれる御衣(Aが着ている衣)」は、Aの着たり食べたりという日常的な動態が神との感応であるかのような表現になり、Aへの敬いや尊重の表現となる。

「恐(かしこ)し。此(こ)の國(くに)は、天神(あまつかみ)の御子(みこ)に立奉(たてまつ)らむ」(『古事記』:上記1)。

「百長(ももなが)に寝(い)をし寝(な)せ 豊御酒(とよみき)たてまつらせ(多弖麻都良世)」(『古事記』:4.「ももながに」はその項。(酒を)お飲みなさい、の意)。

「子(ね)の時(御前零時ころ)に御裳たてまつる(裳着の儀があり、裳を身につけた)。大殿油ほのかなれど、(裳を身につけた姫の)御けはひいとめでたしと、宮は見たてまつりたまふ」(『源氏物語』:(文末の「たてまつり」)見たそれへの謙譲表現によりその姿の尊さが表現されている)。

「『なにがしらを選びてたてまつりたまへるは、人伝てならぬ御消息にこそはべらめ…』」(『源氏物語』:「なにがしら」は、誰か、のような意(→「それがし(某)」の項)ですが、ここでは自分を言っている。これは2.ですが、この「たて」は使者を送ること(→「たて(立て)」の項))。

「(御門(みかど)は)玉しゐ(たましひ)を止(とど)めたる心地してなむ歸らせ給(たまひ)ける。御輿(みこし)にたてまつりて、後に、かぐや姫に…」(『竹取物語』:3.輿に乗って、の敬い表現)。

 

◎「たてまつれ(奉れ)」(動詞)

「たてまつり(奉り)」の語尾E音化の自動態表現。「たてまつり」は基本的に感応情況にあることを表現する情況表現ですが、それがE音の外渉感により動態感が生じる。とくに、使者を送る場合にのみ言われているようです。使者を送ることは「たて」と表現する(→「たて(立て)」の項)。

「さながら書きてちひさき人(藤原道綱)して奉れたれば」(『蜻蛉日記』)。